第12話 真実の足音
その日、温泉旅館の夜はあまりにも静かだった。
昼間の混浴ハプニングで体力をすり減らしたノアは、豪華な夕食を終えた後、早々に自分の布団へと潜り込んでいた。
ルチアとクララは「夜間の警戒」と称して離れの周辺を見回りに向かっており、今度こそ完全に一人になれる時間が訪れたはずだ。薄暗い室内には、庭から聞こえる虫の声が静かにこだましており、ノアは布団の中で天井を見つめ、今日露天風呂で見たクララの震える手を思い出す。
(右腕が繋がっているかを確かめていた……。ルチアは胸の傷を……。俺は本当に、昔死にかけたのか……?)
自らの記憶への疑問と彼女たちの不審な言動。そのパズルのピースが少しずつ繋がりかけるたび、胸の奥が冷たく締め付けられる。本当に自分は死んだのか……なんて馬鹿な考えすら、自分の頭を支配しようとするほどに。
やはり、自分を縛りつける「鳥籠」の正体を突き止めなければならない。彼女たちが抱える恐怖の底にあるものは何か。なぜ自分に対してここまで必死になるのか。それを絶対に知る必要がある。
その時だ。
静かな音を立てて、庭に面した縁側の障子が滑らかに開いた。
「ん……? 誰だ……?」
ノアが身を起こそうとした瞬間、暗闇の中から黒い影が飛び込んできた。月光を背に受けてなびく黒髪、可憐な二本の角、そしてシースルーの艶やかな衣装。
「やっほー♡ ノア、会いに来てあげたわよ♡」
「むぐっ!?」
息をつく暇もなく、ノアは布団の上に押し倒された。跨がってきたのはヴァネッサだ。薄絹越しに伝わる彼女の豊かな太ももの感触と、妖しい香水の香りが部屋いっぱいに広がる。
「ヴ、ヴァネッサ!? なんでここに……! 二人と一緒に警戒に出てたんじゃ——」
「二人とも真面目だからねぇ。私にかかれば簡単に巻けるわよ♡ それより……夕方はお風呂で二人にばっかり甘えさせて、私を仲間外れにするなんてあまりにも意地悪なんじゃない?」
ヴァネッサは小悪魔的な笑みを浮かべると、ノアの耳元にゆっくりと顔を近づけ、甘い吐息を吹きかけてきた。
「今夜は私と、朝まで『お勉強』しましょ♡」
「お勉強って何だよ! 退いてくれヴァネッサ! ここは旅館だし、誰かが来たらどうするんだ!」
「ふふ、来たら来たで、見せつけてあげればいいじゃない♡あなたは私だけのものだって♡」
ヴァネッサの手がノアの胸元へと伸び、パジャマのボタンをゆっくりと外していく。なめらかな指先がノアの肌に触れるたび、電流が走ったかのような感覚が駆け巡る。完全な馬乗り体制、逃げ場のない密室での過激すぎる色仕掛けに、ノアの理性の糸が限界まで引き絞られる。
「ん……っ、ダメだ……ヴァネッサ……っ!」
「ダメじゃないわ♡ ほら、大人しく私に甘やかされなさいな……」
ヴァネッサはそう言って、自身の豊かな胸元をノアの顔に押し当ててきた。視界が塞がれ、柔らかさと甘い香りに包み込まれる。
「あ……ん……ノア、そんなに動かないでよ……」
甘ったるいヴァネッサの声色が脳を突き刺し、ノアの意識が甘美な快楽へと引きずり込まれそうになった——その時、ノアの顔を抱きしめているヴァネッサの細い身体が、微かに震えていることにノアは気づいた。
「……ヴァネッサ……?」
息を詰まらせながら、ノアは胸元から少し顔をずらし、彼女の顔を見上げた。
月光に照らされたヴァネッサの表情。いつもの小悪魔的な笑みは姿を消し、その緋色の瞳には、今にも涙が零れ落ちそうなほどの切哀と絶望が宿っていた。
「……二度と……離さないんだから……」
ヴァネッサは絞り出すような……そして、蚊が泣くような声で呟いた。
「あなたが……あの暗闇の中で冷たくなっていくのを……私はもう、絶対に見たくない……。世界がどうなったっていい……私を置いて、勝手に死なせないんだから……!」
その言葉には、胸を刺すような強い痛みがこもっていた。
「死……? ヴァネッサ、お前……何を言って——」
ノアが問いかけようとした瞬間、屋外から激しい風の音が響き、障子が吹き飛んだ。
「ヴァネッサ! ノア様から離れなさい!」
「貴様、我々の目を盗んでノアに手を出すとは……万死に値する!」
激怒したルチアとクララが躍り込み、部屋は一瞬にして修羅場と化した。ヴァネッサの目からは、いつのまにか涙は消えている。
「あら、野暮な害虫が戻ってきたわね♡」
「誰が害虫だ! ノアから離れろ!」
「ノア様! 今すぐ私がお清めいたしますわ!」
三人のヒロインが入り乱れ、魔法と剣技が交錯する大騒ぎ。布団の中で揉みくちゃにされながらも、ノアの頭の中ではヴァネッサの言葉が何度も何度も響き渡っていた。
(『私を置いて、勝手に死なせない』……?)
彼女たちが抱える真実。それは単なる好意や独占欲などではなく、やはり「かつて一度、自分を死なせてしまった」というトラウマから来るものなのか。
揉み合って騒ぐ三人の姿を見つめながら、ノアは背筋が凍りつくような感覚を覚える。
自分の知らない「過去」。彼女たちが隠し続ける「真相」の足音が、すぐそこまで迫っていることを、ノアは嫌というほど実感していたのだった。




