第11話 湯煙の境界線
山あいに位置する高級温泉旅館。
着いたのは夕方で、通された離れの部屋は木々の香りと源泉のほのかな硫黄の香りに包まれており、専用の露天風呂がついた豪華絢爛な客室だった。
「よし……! とりあえず着いたし、一人でゆっくり温泉に入ってリフレッシュしてくる!」
ノアは彼女たちが着替えや荷物の整理をしている隙を突き、脱衣所へ駆け込んだ。何を隠そう、ここは男湯である。自室や服屋の試着室のように簡単には入り込めない神聖なる場所。そんな安心感に胸を撫で下ろすと、ノアは服を脱ぎ捨て、ひとり露天風呂へと飛び込んだ。
ざぶん、と心地よい湯音が響き、温かい湯が全身を包み込む。
「ふぅぁぁぁ……生き返る……」
澄み渡る夕焼けの空、周囲を囲む情緒ある岩肌、そして湯煙。ここ数日の怒濤の甘やかしと監視から解き放たれ、久しぶりに手に入れた「一人だけの時間」に、ノアは深く息を吐き出した。
(やっぱり、一人は落ち着くな……。ルチアたちには悪いけど、ずっと一緒にいられたら本当に頭がおかしくなりそうだ。)
お湯に肩まで浸かり、目を閉じる。だが、その平穏はわずか数分で破られることとなった。
突然、ガラガラ……と、露天風呂の木戸が静かに開く音。
「ん……? 他のお客さんかな……?」
そう振り返った瞬間、彼の思考はフリーズした。湯煙の向こうから現れたのは、白いバスタオルを一枚だけ胸元に巻いたルチアとクララだった。
「な、ななな、なんで入ってきてるんだぁぁぁっ!?」
お湯を跳ね上げて後退するノア。湯煙の合間から覗く、ルチアの濡れた肌と豊満な胸元の谷間。そして、クララの引き締まった美しいくびれと濡れた銀髪。バスタオル一枚という、隠しているようで全く隠れていない過激すぎる格好に、ノアの顔は瞬時にゆでダコのように真っ赤になっていく。
「ノア様、静かになさってくださいませ。……ここは貸切風呂ですから、何も問題はありませんわ♡」
「問題大ありだろ! 男湯と女湯の区別はどうした! 出て行ってくれ!」
「待てノア、誤解するな。」
クララが至極真面目な顔で、お湯の中に足を踏み入れてくる。ゆらりと揺れる湯面に合わせて、バスタオルが危うく肌から滑り落ちそうになり、ノアは慌てて両手で目を覆った。
「温泉街は無警戒になりやすい場所だ。ましてや、刺客の脅威がある以上、お前を一人で入浴させるわけにはいかない。『護衛』として、同じ湯に入り警戒するのは当然の措置だ。」
「どんな護衛だよ! そもそも刺客ってなんだよ!頼むから服を着てくれ! 俺の理性が死ぬ!」
「ふふ、ノア様ったら照れていらっしゃいますのね。……ほら、背中を流して差し上げますわ♡」
ルチアがお湯をかき分けてノアの背後に回り込み、すべすべとした肌をノアの背中に密着させてくる。湯温以上の熱気がノアの全身を駆け巡り、心臓が破裂しそうなほどの高鳴りを打つ。
(ダメだ……頭がどうにかなりそうだ……っ!)
強烈すぎるお色気アタックに、ノアの意識が飛びかけたその時だった。お湯の中で、クララの手がノアの右腕にそっと触れた。
「……っ」
ノアがビクッと身体を強張らせると、クララは何も言わず、ノアの右腕を肘から手首まで、ゆっくりとなぞるように撫でていた。その手つきは、エロティックなものでは決してなく、まるで、壊れやすいガラス細工を確かめるような、あまりにも慎重で切ない手つき。
「……クララ……?」
ノアが恐る恐る目を開けると、クララはバスタオルが濡れるのも構わずノアの右腕を両手で包み込み、ボソッと呟いた。
「……よかった。繋がっている……。傷ひとつ、ないな……」
その声は、震えていた。
隣でノアの背中に抱きついていたルチアも、ノアの胸元にそっと手を回し、何もない皮膚を愛おしそうになぞりながら、深く安堵の息を漏らしている。
(まただ……)
ノアの心に、激しい警鐘が鳴り響く。二人は今、俺の身体を見ているんじゃない。俺の無事を確かめるフリをして……過去に傷ついた『誰か』の幻影を必死に追っているんだ。
「二人とも……俺の腕や胸に、昔何かあったのか……?」
思わず溢れ出たノアの問いかけに、ルチアとクララの身体が一瞬で凍りついた。二人の表情からお色気の雰囲気が消え去り、そこにはただ、何かに怯える冷たい影だけが残されている。
「……いいえ。何でもありませんわ。ノア様……」
ルチアはそう言って無理に微笑んで見せたが、その瞳の奥には隠しきれない暗い深淵が広がっている。
湯煙の中に見えたのは、過保護な狂気と過去の幻影か……ノアは強い恐怖と疑念を感じざるを得なかった。




