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第9話 夜のベランダの誓い

 屋敷へ連れ戻されてからの時間は、ゆっくりと、けれど確実にノアの「自由」を浸食していった。

 

 自室のドアのすぐ外には、常にクララかヴァネッサが気配を殺して控えており、廊下を数歩歩くだけで「どちらへ行かれるのですか?」と優しく、けれど逃げ場を塞ぐような声が飛んでくる。

 もちろん、買い物にも行けず、好きな時間に散歩することも叶わない。過剰なスキンシップと甘やかしの裏で手渡されたのは、美しく装飾された「鳥籠」の鍵だったのだと、ノアは肌で感じていた。

 息が詰まるほどの閉塞感と、自分の人生の主導権が指の隙間からこぼれ落ちていく恐怖。まるで自分という存在そのものが、彼女たちの「愛」という名の重石によってじわじわと押し潰されていくような感覚に、ノアの心はすり減っていた。


 

(俺は……彼女たちの都合のいいお人形になりたいわけじゃない……)


 

 深夜、胸の重苦しさに耐えかねたノアは、自室のベランダへと足を進めた。

 

 冷たい夜風が熱を持った肌を撫でる。静まり返った街並みを眺め、自分だけの息が吸えるこの狭い空間に、ノアはすがるような思いで佇んでいた。


 

「……夜風は身体に毒ですわ、ノア様♡」


 

 柔らかい衣擦れの音とともに、隣から静かな声がした。見返すと、ルチアが気遣わしげな眼差しで、ノアの肩に温かい毛布を優しくかけようとしていた。

 その慈愛に満ちた仕草。けれど、ノアの心に浮かんだのは温かさではなく、冷や汗が背中を伝うほどの強い違和感だった。

 

 ノアは毛布をかけるルチアの手を、そっと、だが確かな拒絶を込めて制した。


 

「……ルチア」

 

「……はい?」

 

「ひとつだけ、訊かせてくれ……」


 

 月光に照らされるルチアの美貌を見つめながら、ノアは胸の奥底に溜め込んでいた問いを、絞り出すように言葉にした。


 

「俺……本当は昔、何かをしたのか?」

 

「……え?」

 

「君だけじゃない。ヴァネッサも、クララも……俺を見る時、時々すごく遠い目をする。まるで……俺の姿を通して、俺じゃない『誰か』を見ているみたいに……」


 

 息を呑むルチアの気配を感じながら、ノアは思いを絞り出すような声で言葉を重ねる。


 

「俺は、ただの一般人のノアだ。でも……君たちが怯えて、必死に守ろうとして、閉じ込めようとしているのは……本当に、今の俺なのか?」


 

 自由を奪われ、自分の存在意義すら曖昧にされていく恐怖。「お前はここにいろ」と優しく去勢されていくような日常への反発が、ノアの言葉に熱を宿らせる。


 

「教えてくれよ、ルチア。俺は……昔、何だったんだ?」


 

 直球の問いかけに、ルチアは一瞬、弾かれたように目を見開いた。夜の静寂が二人の間を支配する。ルチアはゆっくりと目を伏せ、胸元で手をキュッと握り締めた。


 

「……いいえ」


 

 静かな、けれどどこか切なく震える声が落ちた。


 

「ノア様は……ノア様ですわ。私たちが愛し、お守りしたい……世界でたった一人のお方です。」


 

 ルチアはいつもの優しい微笑みを浮かべようとした。


 

 だが、ノアは見逃さなかった。ルチアが胸元で握りしめたその白く細い手が、目に見えるほど激しく、狂おしく震えているのを。


 

「……そうか」


 

 ノアは深く息を吐き、それ以上追及するのをやめた。ルチアの震える手を見た瞬間、ノアは悟ったのだ。言葉で幾ら否定されようと、彼女たちの歪んだ態度の裏には、到底「ただの過保護」では片付けられない不穏で巨大な『過去』が存在しているのだと。


 

(逃げているだけじゃ、何も変わらない……)


 

 ルチアを見送って、自室に戻り、一人ベッドに横たわったノアは、天井を見つめながら固く拳を握りしめた。

 これまでは彼女たちの過剰なスキンシップに翻弄され、ただ流されるまま逃げ惑うだけだった。外に出られず、部屋に閉じ込められ、自分という人間が彼女たちの記憶の中の「誰か」に上書きされていくのを怯えて待つだけだった。

 

 だが、それではダメだ。自分を縛りつける「鳥籠」の正体を知らないままでは、本当の意味で自由を取り戻すことなんてできない。彼女たちが抱える恐怖の底に何があるのか。なぜ自分に対してここまで必死になり、何を隠しているのか——。


 

(俺はもう、逃げない。君たちが何を隠しているのか、どんな過去があるのか……俺自身の手で、絶対に解き明かしてみせる!)


 

 夜の静寂の中、ノアの瞳には小さな、けれど消えることのない強い決意的の炎が宿っていた。

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