第三十六話 広がる
喫茶店を出た二人は、しばらく街を歩いていた。
「……」
「……」
「雲母お嬢様」
「何ですの?」
「さっきの話なんですけど」
「まだ何かありまして?」
「いや……」
足立は少し考える。
「考えれば考えるほど、嫌になってきますね」
「あら?」
「昨日の僕と、今の僕が同じ意識なのか分からないって話ですよ」
「ああ」
「雲母お嬢様、よく平気ですね」
「平気というわけではありませんわよ?」
「そうなんですか?」
「ええ」
雲母は歩きながら答える。
「ただ、分からないものは仕方ありませんでしょう?」
「……まあ」
「考えて分かるのでしたら考えますけれど」
「はい」
「確かめる方法すら分からないのですもの」
「そうなんですよね……」
足立は小さく息を吐いた。
「考えなきゃよかったな……」
「足立さんから聞き返したのでしょう?」
「そうでした」
雲母が少し笑う。
そして。
「……」
その表情が止まった。
「雲母お嬢様?」
「……」
「どうしました?」
返事はない。
雲母は通りの先を見つめていた。
「……これは」
「何か見えますか?」
「ええ」
「昔のもの?」
「……ええ」
雲母はゆっくりと周囲を見回した。
現在の街並み。
その中に、昔の建物が見える。
それ自体は、もう珍しくない。
だが。
一つではない。
二つでもない。
道路の向こう。
建物の隣。
交差点の先。
視界に入るあちこちに、現在には存在しないものが重なっている。
「……増えていますわね」
「またですか?」
「ええ」
「どれくらいです?」
「……」
雲母は答えなかった。
「雲母お嬢様?」
「少しお待ちになって」
現在のビル。
そこに重なる古い建物。
さらに、その前に存在していたらしい別の建物。
現在の広い道路。
そこを横切るように伸びる細い道。
その向こうには、さらに別の道。
看板。
家。
店。
そして。
人。
「……」
一人の男性が歩いている。
その姿に、別の姿が重なっている。
さらに。
もう一つ。
「……三人」
「え?」
「いえ」
雲母は別の人物を見る。
そこにも。
現在とは違う姿が重なっていた。
その隣にも。
その向こうにも。
「……」
「そんなに見えるんですか?」
「ええ」
雲母は小さく頷いた。
「昨日までとは、少し違いますわね」
「急に増えたんですか?」
「そのようですわ」
*
二人は歩き続けた。
だが。
進めば進むほど。
雲母の表情は険しくなっていった。
「……」
「大丈夫ですか?」
「ええ」
「本当に?」
「見づらいだけですわ」
「またですか」
「また、ではありませんの」
「え?」
「以前より、ずっと見づらいですわ」
現在の街。
昔の街。
さらに昔の街。
それらが、同じ場所に重なっている。
どれか一つが透けて見えるわけではない。
どれも、はっきりと見える。
人々も同じだった。
現在の姿。
少し前らしき姿。
さらに昔らしき姿。
それぞれが重なっている。
その上。
死者の意識。
黒いモヤ。
それらまでが、同じ街の中に存在している。
「……これは」
「はい?」
「少々、困りますわね」
「雲母お嬢様がそう言うと、本当に困っている感じがしますね」
「実際に困っておりますのよ」
「珍しい……」
「何ですって?」
「いえ」
その時。
「うわっ」
近くから声が聞こえた。
二人が振り返る。
一人の男性が立ち止まっていた。
「何だよ、これ……」
男性の視線の先。
雲母には、黒いモヤが見えている。
その中には、古い建物があった。
「また、見える人ですか?」
「ええ」
だが。
一人ではない。
「あそこも黒い」
「こっちにもあるぞ」
「何、これ……」
「昨日より増えてない?」
何人もの人間が、周囲を見回している。
黒いモヤ。
その中に雲母が見ているものは、それぞれ違う。
死者。
建物。
道。
人。
だが。
周囲の人間には。
ただ、黒いものとして見えているらしい。
「……」
「雲母お嬢様」
「何ですの?」
「これ」
足立が周囲を見回す。
「かなりの人数に見えてませんか?」
「そうですわね」
「昨日までも、こんな感じでしたか?」
「いいえ」
雲母は即答した。
「明らかに増えていますわ」
「……」
足立には。
黒いモヤそのものは、まだ見えない。
だが。
それを見ている人々なら、見える。
立ち止まる者。
指を差す者。
携帯電話を向ける者。
不安そうに周囲を見回す者。
「……雲母お嬢様」
「ええ」
「なんか」
足立が声を落とす。
「急じゃないですか?」
「……」
雲母は答えなかった。
*
さらに歩いた先。
雲母が突然、足を止めた。
「……」
「また何か見えましたか?」
「足立さん」
「はい?」
「こちらへ」
「え?」
雲母が足立の腕を掴んだ。
「ちょ、何ですか?」
「こちらですわ」
二人は道の端へ寄った。
「どうしたんですか?」
「道が」
「道?」
「違って見えましたの」
「……昔の道ですか?」
「ええ」
「でも、今の道は分かりますよね?」
「分かりますわ」
「では――」
「一瞬」
雲母が言う。
「どれが今の道なのか、分からなくなりましたの」
「……」
足立の表情が変わった。
「それ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫ではないから、立ち止まりましたのよ」
「いや、そうじゃなくて……」
「分かっておりますわ」
雲母は周囲を見る。
現在の道。
昔の道。
さらに昔の道。
交差する位置も違う。
幅も違う。
沿道の建物も違う。
そこを歩く人々の姿まで重なっている。
「……」
雲母は小さく息を吐いた。
「これは」
「はい?」
「少し、まずいですわね」
足立が黙った。
雲母が。
怪異を見ても。
死者を見ても。
原因の分からない現象に遭遇しても。
滅多に口にしなかった言葉だった。
*
二人は一度、人通りの少ない場所へ移動した。
「……」
「ここなら大丈夫ですか?」
「先ほどよりは」
「そうですか」
足立は周囲を見る。
彼には、まだ普通の街が見えている。
だが。
遠くでは、人々が騒いでいる。
「黒いの、増えてる」
「何なの、これ」
「こっちにもあるぞ」
そんな声が、次々と聞こえてくる。
「……」
「雲母お嬢様」
「何ですの?」
「どうしますか?」
「どうする、とは?」
「これですよ」
足立が周囲を示す。
「こんなに増えているんでしょう?」
「ええ」
「何か……」
足立は言葉を探した。
「できることは、ありますか?」
「……」
雲母は少し考えた。
「ありませんわね」
「……」
「わたくしにできるのは、見ることくらいですもの」
「そうでしたね」
「ええ」
二人は黙った。
これまで。
分からないものがあれば、調べてきた。
原因が分からなくても。
正体が分からなくても。
観察し。
話を聞き。
考えてきた。
だが。
今、目の前で起きているものは。
あまりにも多かった。
「……全部は」
足立が呟く。
「調べられませんね」
「ええ」
雲母は街を見る。
「もう」
少し間を置く。
「一つずつ調べるようなものでは、なさそうですわね」
遠くで。
また誰かが声を上げた。
その声に。
何人もの人間が足を止める。
雲母には。
現在の街に重なる、いくつもの昔の状態が見えていた。
昨日まで。
それらは、街の中に現れた異常だった。
だが。
今は。
異常ではない場所を探す方が、難しくなり始めていた。




