第三十四話 状態
翌日。
雲母と足立は、また同じ喫茶店にいた。
「……」
「……」
「足立さん」
「はい?」
「昨日のお話なのですけれど」
「やっぱり続くんですね」
「あら?」
「いや、続くだろうなとは思ってましたけど」
「では、よろしいではありませんの」
「もう好きにしてください……」
雲母は紅茶のカップへ手を伸ばした。
「昨日」
「はい」
「過去は、すでに決まっているもの」
「はい」
「未来は、まだ決まっていないもの」
「はい」
「そして現在は、決まるところなのではないか、と」
「僕が言いましたね」
「ええ」
雲母はカップを持ち上げる。
「それで、少し考えていたのですけれど」
「何を考えていたんですか?」
「何が決まるんですの?」
「……」
足立が黙った。
「また難しいところから来ましたね」
「足立さんが『決まる』と仰ったのでしょう?」
「そうですけど」
「でしたら、何が決まるのか考える必要がありますわ」
「……出来事とか?」
「出来事?」
「はい」
足立は少し考える。
「例えば、昨日の催しなら」
「ええ」
「中止になるのか、延期になるのか、普通に開催されるのか」
「ええ」
「それが決まる」
「なるほど」
雲母は頷いた。
「では、昔の建物は?」
「建物?」
「ええ」
「……建っていたことが決まった?」
「それも出来事ですの?」
「……」
「昔の道は?」
「道があったこと?」
「昔の足立さんは?」
「僕が、あの格好をしてたこと」
「わたくしは?」
「昔、あの服を着てたこと」
「……」
雲母は少し考えた。
「何でも『起きたこと』にすれば、出来事とは言えそうですわね」
「でしょう?」
「ですが」
「はい?」
「少し変ではありませんこと?」
「何がですか?」
「わたくしに見えている昔の建物は」
雲母は窓の外へ視線を向ける。
「『建物が建っていたという出来事』ではありませんわ」
「……」
「建物そのものが見えていますの」
「ああ……」
「昔の道も」
「道そのもの」
「ええ」
「僕も?」
「昔の足立さん、そのものに見えましたわ」
「……」
「ですから」
雲母はカップを置いた。
「出来事だけが決まっている、と考えるのは、少し違う気がいたしますの」
*
「では」
足立が言う。
「何なんでしょう?」
「それを考えておりますの」
「はい」
「例えば」
雲母はテーブルの上にあるカップを指差した。
「このカップ」
「またカップですか」
「便利ですもの」
「便利に使われてますね、そのカップ」
「今は、ここにありますわね」
「はい」
「中には紅茶が入っている」
「はい」
「わたくしが持ち上げれば」
雲母はカップを持ち上げる。
「ここにある」
「はい」
「飲めば」
一口飲む。
「中身が減る」
「はい」
「割れば」
「割らないでくださいね」
「例えですわよ」
「ならいいですけど」
雲母はカップを戻した。
「つまり」
「はい」
「カップがどこにあるのか」
「はい」
「どのような形なのか」
「はい」
「中に何が入っているのか」
「はい」
「そういったものが、すべて違いますでしょう?」
「まあ、そうですね」
「では」
雲母は少し考える。
「ある一つの時に、このカップがどうなっているのか」
「……」
「それを丸ごと表す言葉はありませんの?」
「丸ごと?」
「ええ」
「位置も」
「はい」
「形も」
「ええ」
「中身も?」
「ええ」
「……状態?」
雲母の動きが止まった。
「状態」
「はい」
「……」
「何か変ですか?」
「いいえ」
雲母は、その言葉を小さく繰り返した。
「状態……」
「カップの状態、とか普通に言うでしょう?」
「そうですわね」
「人なら、人の状態」
「ええ」
「建物なら、建物の状態」
「……」
雲母は少し考え込む。
「では」
「はい?」
「昔の建物が見えているというのは」
言葉を選ぶ。
「その建物の、昔の状態が見えている?」
「……そういう言い方もできますね」
「昔の足立さんは?」
「僕の昔の状態?」
「ええ」
「雲母お嬢様も」
「わたくしの昔の状態」
二人とも黙った。
*
「……足立さん」
「はい?」
「少し話を広げてもよろしい?」
「嫌な予感しかしないですけど、どうぞ」
「建物だけではなく」
「はい」
「道も、人も、看板も」
「はい」
「同じように昔の姿が見えている」
「そうですね」
「でしたら」
雲母は少し眉を寄せる。
「一つ一つが別々におかしくなっている、と考える必要はありますの?」
「……どういう意味ですか?」
「建物には、建物の異常」
「はい」
「人には、人の異常」
「はい」
「道路には、道路の異常」
「はい」
「そう考えていましたけれど」
雲母は窓の外を見る。
現在の街並み。
そこに重なっている、いくつもの昔の姿。
「すべて」
少し間を置く。
「その時、その場所がどうなっていたのか」
「……」
「そういうものが、まとめて見えているとしたら?」
足立が黙った。
「……街の昔の状態?」
「そういうことになりますわね」
「でも」
「何ですの?」
「それって、過去と何が違うんですか?」
「……」
今度は雲母が黙った。
「昔の状態って、結局は過去ですよね?」
「そうですわね」
「じゃあ、やっぱり過去が見えてる?」
「……」
雲母はしばらく考える。
「いいえ」
「違うんですか?」
「違うというより」
言葉を探す。
「少し、捉え方が変わっただけですわ」
「捉え方?」
「ええ」
雲母はゆっくりと続ける。
「今までは、過去というものがどこかにあって」
「はい」
「そこにあったものが、こちらへ出てきているように考えていましたわ」
「……はい」
「ですが」
窓の外に見える、古い建物を見る。
「あの建物が、どこかから移動してきたようには見えませんの」
「前にも言ってましたね」
「ええ」
「じゃあ」
「ただ」
雲母は古い建物から目を離さない。
「以前、その場所がそうなっていた」
「……」
「その状態が」
少し間を置く。
「今も、見えている」
足立は何も言わなかった。
*
「……それで」
しばらくして、足立が口を開いた。
「未来の方は?」
「そこですわね」
雲母はすぐに答えた。
「過去が、すでに決まった状態だとするなら」
「はい」
「まだ起きていないものは」
「どの状態になるか、決まっていない?」
「……」
雲母は少し考える。
「変ですわね」
「何がですか?」
「決まっていないものを、『状態』と呼んでよいのでしょうか」
「……」
「まだ、どれになるか分からないのでしょう?」
「はい」
「大きな事故が起きるもの」
「はい」
「それより、被害の小さな事故が起きるもの」
「はい」
「そして、最後には記事そのものが消えた」
「そうでしたね」
「催しについても」
「中止、延期、予定どおり開催」
「ええ」
「違うものが、いくつも見えた」
「そうですわ」
「……」
足立は少し考える。
「候補?」
「候補?」
「いや、適当ですけど」
「ええ」
「こうなるかもしれない、ああなるかもしれない、っていう」
「……」
「その候補が見えてたとか」
「可能性、ということですの?」
「そんな感じです」
雲母は黙った。
「……何ですか?」
「また一つ」
「はい?」
「分からないことが増えましたわ」
「増えたんですか」
「ええ」
「残念ですね」
「楽しそうに仰らないでくださいませ」
「雲母お嬢様、そういうの好きでしょう?」
「否定はいたしませんけれど」
雲母は紅茶を一口飲んだ。
「過去は、すでに決まった状態」
「はい」
「未来は、まだどの状態になるのか決まっていない」
「はい」
「そして現在は」
「決まるところ?」
「……」
雲母はカップを置いた。
「そう考えると」
「はい」
「ますます、時間のお話ではなくなってきましたわね」
「じゃあ」
足立は少し嫌そうな顔をする。
「何の話なんですか?」
雲母は少し考えた。
「世界が」
「はい?」
「どうなっているのか」
「……」
足立の表情が止まった。
「雲母お嬢様」
「何ですの?」
「話、大きくなりすぎてませんか?」
「わたくしに言わないでくださいませ」
「誰に言えばいいんですか」
「知りませんわよ」
二人は黙った。
最初は。
昔の建物が見えるというだけの話だった。
それが。
過去とは何か。
未来とは何か。
現在とは何か。
時間とは何か。
そして今。
世界そのものが、どのような状態にあるのか。
そこまで。
話は広がっていた。




