第三十三話 過去と未来
翌日。
雲母と足立は、昨日と同じ喫茶店にいた。
「昨日の話なんですけど」
足立が口を開いた。
「何ですの?」
「時間の話です」
「ああ」
「僕、帰ってからちょっと考えたんですよ」
「まあ」
雲母が少し意外そうに足立を見る。
「何ですか、その顔」
「いいえ。足立さんも考えてくださったのだなと」
「僕だって考えますよ」
「そうでしたのね」
「馬鹿にしてますか?」
「しておりませんわよ?」
「ならいいですけど……」
足立は小さく息を吐いた。
「それで」
「ええ」
「昨日、時間が進むから物事が変わるんじゃなくて、物事が変わることを、時間が進んだと考えてるだけかもしれないって言ってたじゃないですか」
「ええ」
「それが正しいとして」
「まだ正しいとは言っておりませんわよ」
「仮に、ですよ」
「ええ」
「そうすると」
足立は少し考える。
「過去とか未来って、どうなるんですか?」
「……」
雲母が黙った。
「昨日も途中まで話しましたけど」
「ええ」
「時間が流れていないなら、過去から現在、現在から未来っていうのも変じゃないですか?」
「……そうですわね」
雲母は腕を組む。
「では、改めて考えてみましょうか」
「また始まるんですね」
「足立さんから始めたのでしょう?」
「そうでした」
*
「まず」
雲母が言う。
「今まで見えてきた、昔のものについてですわ」
「建物とか?」
「ええ」
昔の建物。
昔の看板。
なくなった道。
過去の足立。
過去の雲母。
どれも。
確認できるものについては、実際に存在したものと一致していた。
「そして」
雲母が続ける。
「一度現れた姿が、見えている途中で別のものへ変わることもありませんでしたわ」
「はい」
「一方で」
「まだ起きていないもの」
「ええ」
事故の記事。
催しの案内。
どちらも、見るたびに内容が変わった。
「では」
雲母が足立を見る。
「この二つの違いは、何ですの?」
「……」
足立は考える。
「前にも言いましたけど」
「ええ」
「昔のことは、もう起きた」
「ええ」
「まだ起きていないことは、どうなるか決まっていない」
「……」
雲母は黙った。
「雲母お嬢様?」
「足立さん」
「はい?」
「今」
「はい」
「『決まっていない』と仰いましたわね?」
「言いましたけど」
「では、過去はどうですの?」
「……決まってる?」
「……」
「いや」
足立が少し困った顔をする。
「もう起きたんだから、決まってるでしょう?」
「そうですわよね」
「はい」
「……決まっている」
雲母は、その言葉を繰り返した。
「何か気になりますか?」
「ええ」
少し考える。
「わたくしたちは、過去のことを」
「はい」
「終わったこと、と考えますわよね?」
「まあ、そうですね」
「昔あったこと」
「はい」
「もう過ぎたこと」
「はい」
「ですが」
雲母は指を一本立てる。
「今、わたくしに見えている昔の建物は」
「はい」
「終わっているようには見えませんの」
「……」
「今、そこに見えていますもの」
「でも、取り壊されてるんですよね?」
「ええ」
「じゃあ、もうない」
「現在は、ですわね」
「……」
「ですが」
雲母は少し考える。
「その建物が、かつてそこに存在したということ自体は」
「はい」
「もう変わりませんでしょう?」
「……そうですね」
「昨日見ても」
「同じ」
「今日見ても」
「同じ」
「資料を確認しても」
「本当にあった」
「ええ」
雲母は頷いた。
「でしたら」
少し間を置く。
「過去というものは、『終わったもの』というより」
「……」
「すでに決まっているもの、と考えた方が近いのかもしれませんわね」
足立は黙った。
*
「じゃあ」
足立が言う。
「未来は?」
「まだ決まっていない」
「ですよね」
「少なくとも、今まで見たものはそう見えますわね」
「事故の規模が大きくなったり、小さくなったり」
「ええ」
「最後には、記事そのものが消えた」
「ええ」
「催しも、中止になったり、延期になったり、普通に開催されたり」
「そうですわね」
「……」
二人は少し黙った。
「でも」
足立が言う。
「変じゃないですか?」
「何がですの?」
「決まってないのに、なんで見えるんです?」
「……」
雲母の動きが止まった。
「未来なんですよね?」
「そう呼んでよいのかは、まだ分かりませんわ」
「でも、まだ起きていないこと」
「ええ」
「まだ決まっていない」
「ええ」
「なのに、記事や案内として見えた」
「……そうですわね」
「しかも、何種類も」
「ええ」
「じゃあ」
足立は首を傾げる。
「何を見てたんですか?」
「……」
雲母は黙り込んだ。
「雲母お嬢様?」
「今、考えておりますの」
「はい」
「……」
しばらくして。
「分かりませんわ」
「ですよね」
「ですが」
「はい?」
「少し妙ですわね」
「何がですか?」
「まだ決まっていないものが」
雲母はゆっくり言葉を選ぶ。
「何もない、わけではない」
「……え?」
「本当に何もないのでしたら、見えるものもないはずでしょう?」
「……まあ」
「ですが、わたくしには見えました」
「はい」
「しかも、一つではなかった」
「……」
大きな事故が起きる。
被害の小さな事故が起きる。
やがて、記事そのものが消える。
催しが中止になる。
延期される。
予定どおり開催される。
「まだ決まっていない」
雲母が呟く。
「ですが、何もないわけでもない……?」
「……なんか」
足立が嫌そうな顔をする。
「また変なところに入り始めてません?」
「すでに入っておりますわよ」
「そうでしたね……」
*
「では」
雲母が言った。
「もう一度、現在について考えてみましょう」
「また現在ですか」
「ええ」
「昨日、散々やりましたよね?」
「答えが出ておりませんもの」
「出るんですかね……」
「それを今から考えるのでしょう?」
「便利ですね、その言葉」
「あら。足立さんまで使い方を覚えましたのね」
「嬉しくないです」
雲母は少し笑う。
そして。
「過去が、すでに決まっているもの」
「はい」
「未来が、まだ決まっていないもの」
「はい」
「だとしますでしょう?」
「はい」
「では」
雲母は少し考える。
「現在は?」
「……」
「……」
足立が眉を寄せる。
「今?」
「昨日に戻りましたわね」
「いや、だって現在は今でしょう」
「では、その今とは?」
「また始まった!」
「真面目に考えてくださいませ」
「考えてますよ!」
足立は頭を掻く。
「過去は決まってる」
「ええ」
「未来は決まっていない」
「ええ」
「現在は……」
言葉が止まる。
「……決まるところ?」
雲母が足立を見る。
「決まるところ?」
「いや、分かりませんよ?」
「ええ」
「でも」
足立は考えながら続ける。
「まだ決まっていないことがあって」
「はい」
「それが起きたら、もう変わらない過去になる」
「……」
「だったら、その間が現在なのかなって」
雲母は黙った。
「……変ですか?」
「いいえ」
「じゃあ、合ってますか?」
「それも分かりませんわ」
「どっちなんですか」
「ただ」
雲母はゆっくり頷いた。
「面白い考え方ですわね」
「そうですか?」
「ええ」
過去。
すでに決まっているもの。
未来。
まだ決まっていないもの。
そして、現在。
「……決まるところ」
雲母が小さく呟いた。
「雲母お嬢様?」
「何ですの?」
「また何か引っかかりましたか?」
「ええ」
「今度は何ですか?」
雲母は少し考えた。
「なんだか」
「はい」
「時間のお話では、なくなってきましたわね」
「……」
足立も黙った。
「過去とか未来とか現在の話をしてるのに?」
「ええ」
「じゃあ、何の話なんですか?」
「……」
雲母は窓の外へ目を向けた。
現在の街。
そこに重なる、いくつもの昔の姿。
そして、まだ起きていないはずなのに、形を変えながら現れたもの。
「決まっているもの」
雲母が呟く。
「決まっていないもの」
「……はい」
「そして」
少し間を置く。
「決まること」
足立は何も言わなかった。
雲母も。
それ以上は、まだ言葉にできなかった。
ただ。
過去。
現在。
未来。
そう呼んでいたものが。
今までとは少し違うものに、見え始めていた。




