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残響  作者: れすた
20/40

第二十話 縁側の黒いモヤ

「最近、縁側に黒いモヤが見えるんです」


 今回の相談者は、一人暮らしの老婦人だった。


「黒いモヤ、ですの?」


 雲母が尋ねる。


「ええ。最初は目の錯覚かと思ったんですけどね。毎日のように見えるものだから」


「いつ頃からですの?」


「そうねえ……一週間くらい前からかしら」


 雲母は少し考える。


「そのモヤは、いつも同じ場所に?」


「ええ。縁側です」


「何か起きたりは?」


「いいえ。何も」


 老婦人は穏やかに首を横に振った。


「ただ、そこにあるだけなんです」


「そうですのね」


「気味が悪いというより……何なのか気になりましてね」


「では、拝見いたしましょう」


 老婦人に案内され、雲母と足立は縁側へ向かった。


 よく手入れされた小さな庭。


 縁側には座布団が一枚置かれている。


 そして。


「……あら」


 雲母が足を止めた。


「います?」


 足立が小声で尋ねる。


「ええ」


 黒いモヤ。


 その中に、一人の老人が座っていた。


 七十代ほどだろうか。


 縁側に腰掛け、庭をぼんやりと眺めている。


 雲母には、その姿がはっきりと見えていた。


「こちらです」


 老婦人が縁側を指差す。


「今も見えますの?」


「ええ。ほら、そこに黒いものが」


 老婦人には黒いモヤしか見えていない。


 足立には、それすら見えていなかった。


 雲母は老人を見る。


 これまでに見てきた死者の意識と近い。


 だが、老人は苦しんでいる様子もなく、ただ静かに座っていた。


「……あなた」


 雲母が声を掛ける。


 老人がゆっくりと顔を上げた。


「……なんだ」


 返事があった。


「わたくしが見えますの?」


「ああ」


「わたくしの声も聞こえますの?」


「聞こえてるよ」


「まあ」


 雲母は老人へ近づいた。


「少しお話を伺ってもよろしいかしら?」


「好きにしな」


 老人は再び庭へ目を向けた。


 声には、ほとんど抑揚がなかった。


「こちらには、いつからいらっしゃいますの?」


「さあな」


「覚えていませんの?」


「分からん」


「お名前は?」


 老人は自分の名前を答えた。


 それを聞いた瞬間、老婦人の表情が変わった。


「……え?」


 もちろん、老婦人には老人の声は聞こえていない。


 雲母が名前を告げたことで気づいたのだ。


「その名前……」


「ご存じですの?」


「主人です」


 老婦人は縁側を見る。


「亡くなった主人の名前です」


「そうでしたの」


 雲母は老人を見る。


 老人も老婦人を見ていた。


「ご主人は、生前こちらによく座っていらしたんですの?」


「ええ」


 老婦人の顔に懐かしそうな笑みが浮かぶ。


「毎日のように。朝も夕方も、暇があればここに座って庭を見ていました」


「なるほど」


「じゃあ……」


 老婦人は黒いモヤを見る。


「そこにいるのは、主人なんでしょうか?」


「……」


 雲母は老人を見る。


 名前は一致している。


 老人自身も、老婦人へ視線を向けている。


「ええ」


 雲母は静かに答えた。


「そう見えますわ」


「まあ……」


 老婦人は嬉しそうに笑った。


「そうなの」


「……」


「それは、いいわ」


 雲母と足立が黙る。


「ずっとそこにいるのね」


 老婦人は縁側を見つめていた。


「生きていた頃も、いつもそこに座っていましたから」


 少し笑う。


「亡くなってからも同じところにいるなんて、あの人らしいわ」


「……」


 老人は何も言わなかった。


 ただ、妻を見ていた。


     *


 しばらくして、老婦人には席を外してもらった。


 雲母は改めて老人の前に立つ。


「奥様ですわよね?」


「ああ」


「分かっていらっしゃるんですのね」


「忘れるわけないだろ」


「では、ご自分が亡くなったことも?」


「……ああ」


 老人は小さく頷いた。


「覚えてるよ」


「どのように亡くなったのかも?」


「覚えてる」


 雲母が老人を見つめる。


「では――」


 その時だった。


「……っ」


 老人の表情が歪んだ。


 片手で胸を押さえる。


「どうしましたの?」


「……来たか」


「来た?」


 老人は前屈みになる。


 呼吸が荒くなっていく。


「……っ、ぐ……」


「あなた?」


「大丈夫ですの?」


 足立が尋ねる。


「胸を押さえていらっしゃいますわ」


「え?」


「かなり苦しそうですわね」


 老人の身体が震える。


 額に汗が浮かぶ。


 胸を押さえたまま、ゆっくりと身体が傾いていく。


「……また……」


 老人が掠れた声を漏らした。


「また?」


 雲母が聞き返す。


 だが、老人は答えなかった。


 そのまま縁側へ倒れ込む。


 しばらく身体が震えていた。


 やがて。


 動かなくなった。


「……」


 そして、黒いモヤとともに姿が消えた。


「消えました?」


「ええ」


 雲母は老人がいた場所を見つめる。


 今までにも見てきた。


 死の直前と思われる状態。


 消失。


 そして再出現。


「……では」


 雲母はその場で待った。


 しばらくすると。


 再び黒いモヤが現れる。


 老人が縁側に座っていた。


 最初と同じ姿。


 庭を眺めている。


 雲母は近づいた。


「あなた」


「……なんだ」


「わたくしを覚えていらっしゃいますの?」


「ああ」


「……」


 雲母の表情が止まった。


「覚えていらっしゃいますの?」


「だから、覚えてるよ」


「先ほど、わたくしとお話ししたことも?」


「ああ」


「奥様のお話も?」


「しただろ」


「……」


 足立が雲母を見る。


「雲母お嬢様?」


「この方……」


 雲母は老人から目を離さない。


「覚えていますわ」


「え?」


「先ほどのお話を」


「……」


 足立も表情を変えた。


 これまで会話できた死者は、一度消えて再び現れると、雲母との会話を覚えていなかった。


 だが、この老人は違う。


「では」


 雲母はさらに尋ねる。


「先ほど、胸を押さえて苦しんでいたことも覚えていらっしゃいますの?」


「ああ」


「倒れたことも?」


「覚えてる」


「そのあと、ご自分が消えたことは?」


「……それは知らん」


 老人は首を横に振った。


「苦しくなって、倒れて……」


 少し考える。


「気がついたら、またここにいる」


「……」


「いつもそうだ」


 雲母の眉がわずかに動いた。


「いつも?」


「ああ」


「これが初めてではありませんの?」


 老人は雲母を見る。


「何度もだよ」


「……何度?」


「知らん」


「数えていらっしゃらない?」


 老人はしばらく黙った。


「……数えてたよ」


「……」


「最初のうちはな」


 雲母は何も言わなかった。


「百までは数えた」


「…………」


「そのあとは、やめた」


 庭を見ながら、老人は淡々と答えた。


 怒っているわけでもない。


 泣いているわけでもない。


 ただ、疲れていた。


「苦しさも……覚えていらっしゃいますの?」


「ああ」


「毎回?」


「毎回だ」


「慣れませんの?」


「慣れると思うか?」


「……」


「何度やっても、苦しいもんは苦しい」


 雲母は黙った。


 足立には老人の声は聞こえていない。


 だが、雲母の表情を見て、何かがおかしいことだけは分かった。


「……雲母お嬢様」


「あとでお話ししますわ」


「……はい」


 老人が小さく息を吐いた。


「なあ」


「何ですの?」


「あんた」


 老人は雲母を見る。


「俺を終わらせられるのか?」


「……」


 雲母は答えなかった。


「俺が見えるんだろ?」


「ええ」


「話もできる」


「ええ」


「だったら」


 老人の声が、ほんの少しだけ強くなる。


「これを終わらせることはできないのか?」


「……」


 雲母は老人を見つめた。


 そして。


「申し訳ありません」


 静かに首を横に振る。


「わたくしには、その方法が分かりませんわ」


「……そうか」


 それだけだった。


 落胆した様子すらない。


 老人は再び庭へ目を向けた。


「そうか」


 もう一度、呟く。


「……」


 しばらくして。


「ばあさんには」


 老人が言った。


「はい?」


「言わないでくれ」


「……」


「俺がこうなってることは」


 雲母は黙って老人を見る。


「さっき、喜んでただろ」


「……ええ」


「なら、それでいい」


「ですが」


「いいんだよ」


 老人は庭を見つめたまま答えた。


「俺がここにいると思って、それで安心するなら」


「……」


「それでいい」


 雲母はしばらく何も言わなかった。


 やがて。


「……分かりましたわ」


 そう答えた。


     *


 老婦人が戻ってきた。


「どうでした?」


「ええ」


 雲母はいつもの調子で頷いた。


「やはり、ご主人のようですわね」


「まあ」


 老婦人が嬉しそうに縁側を見る。


「今もそこに?」


「ええ」


「そう」


 老婦人は微笑んだ。


「あら、それはいいわ」


「……」


「そこにいつもいるのね」


 老人は妻を見ていた。


 何も言わない。


 ただ静かに。


 その時。


 老人の手が、わずかに胸元へ動いた。


「……っ」


 雲母は気づいた。


 老人も雲母を見る。


 ほんの一瞬だけ、目が合った。


 だが。


 雲母は何も言わなかった。


「主人ね」


 老婦人が楽しそうに続ける。


「昔から、あそこがお気に入りだったんですよ」


「……そうでしたの」


「ええ」


 老人の呼吸が、少しずつ荒くなっていく。


 老婦人には見えない。


 足立にも見えない。


 雲母だけが見ていた。


「また来てもいいかしら」


 老婦人が黒いモヤへ向かって、そう言った。


「ここ、私の家ですけどね」


 自分で言って、小さく笑う。


 雲母も少しだけ笑った。


「きっと、よろしいと思いますわ」


     *


 家を出たあと。


 足立がしばらく黙って歩いていた。


「……雲母お嬢様」


「何ですの?」


「さっきの人」


「ええ」


「何があったんです?」


 雲母は少し黙った。


「……覚えていましたわ」


「何をです?」


「全部ですわ」


「……全部?」


「わたくしとお話ししたことも。胸を押さえて苦しんだことも。倒れたことも」


 足立の足が少し遅くなる。


「でも、一度消えたんですよね?」


「ええ」


「それでも?」


「覚えていましたわ」


「……」


「何度も繰り返しているそうですの」


「何度くらい……?」


「分かりませんわ」


 雲母は前を向いたまま答える。


「ご本人も、もう数えていませんもの」


「……」


 足立は何も言えなくなった。


 しばらくして。


「終わらせられないんですか?」


「……」


「雲母お嬢様」


「分かりませんわ」


 いつもと同じ言葉だった。


 けれど。


 今回は、それ以上何も続かなかった。


 二人は黙って歩いていく。


 家の縁側では。


 老婦人が、黒いモヤのそばに座っていた。


 亡くなった夫が、今もそこにいる。


 それだけで。


 老婦人は、少し嬉しそうだった。

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