第十九話 消えた相談者
「隣の空き家から、変な音がするんです」
今回の相談者は、四十代ほどの男性だった。
「音、ですの?」
雲母が尋ねる。
「はい。コン、とか、カン、とか……何かを叩いているような音です」
「いつ頃聞こえますの?」
「夜が多いですね。ただ、毎日というわけではありません」
「何か共通することは?」
「そうですね……」
男性は少し考えた。
「雨が降った日や、その次の日に多い気がします」
「雨の日?」
「はい。雨が止んでからも鳴るんです。夜中に突然、コン……って」
隣で聞いていた足立が尋ねる。
「その空き家には、誰も住んでいないんですよね?」
「ええ。ずっと空き家です」
「誰かが入り込んでいる可能性は?」
「それは分かりません。ただ、外から見る限りでは特に変わったところはなくて……」
「なるほど」
雲母は頷いた。
「では、確認いたしましょう」
「お願いします」
*
その日の夕方。
雲母と足立は、相談者の男性に案内されて問題の空き家を訪れた。
「こちらです」
男性が一軒の家を指差す。
古い二階建ての住宅だった。
庭には雑草が伸び、雨樋や外壁にもかなり年季が入っている。
その隣には、普通の住宅が建っていた。
「確かに古いですね」
足立が家を見上げる。
「長いこと誰も住んでいないそうです」
男性が答えた。
「音は、どの辺りから聞こえますの?」
「家の裏側だと思います」
「では、そちらから確認しましょう」
三人は空き家の脇を通り、裏手へ回った。
雲母は周囲を見回す。
特に何かが見えるわけではない。
「何かいます?」
足立が尋ねる。
「いいえ」
「何も?」
「何も見えませんわね」
「じゃあ、普通の原因だったりします?」
「その可能性はありますわ」
「今回はそれであってほしいですね……」
「あら。調べる前から決めつけるものではありませんわよ」
「希望くらい持たせてくださいよ」
雲母は気にすることなく、建物の裏側を確認していく。
古い雨樋。
排水管。
軒下。
壁際には、雨水を受けるための古い金属製の部品が取り付けられていた。
「……」
雲母が足を止める。
「どうしました?」
「これ、少し気になりますわね」
「これですか?」
足立も覗き込む。
雨樋から落ちた水を受ける、小さな受け皿のようなものだった。
かなり古く、固定部分も緩んでいる。
「水が溜まっていますわ」
「昨日、雨でしたからね」
「ええ」
雲母が少し屈んで観察する。
受け皿には、雨樋から少量の水が落ち続けていた。
ぽた。
ぽた。
少しずつ水が溜まっていく。
「……」
三人で見ていると。
受け皿が、水の重みでゆっくりと傾いた。
溜まっていた水が、一気に流れ落ちる。
そして。
カコン。
軽くなった受け皿が元の位置へ戻り、背後の金具へぶつかった。
「…………」
「…………」
足立が受け皿を見る。
「……これですか?」
「おそらく」
雲母が頷く。
「水が一定量溜まると傾いて、水が落ちる。軽くなると元へ戻って、その時に金具へ当たっていますわね」
「鹿威しみたいなものですか」
「似たようなものですわね」
足立が雨樋を見上げる。
「雨が止んだあとも、樋に残った水が少しずつ落ちてくるから……」
「しばらくは繰り返すのでしょうね」
ぽた。
ぽた。
また水が溜まっていく。
しばらくして。
カコン。
「……これですね」
「これですわね」
足立が大きく息を吐いた。
「よかった……」
「何がですの?」
「普通の原因で」
「まあ、そうですわね」
雲母も立ち上がる。
「固定部分を直せば、音もしなくなるでしょう」
「今回は早かったですね」
「ええ」
雲母は服についた埃を軽く払った。
「では、相談者の方へ説明しましょうか」
「そうですね」
雲母が振り返る。
「……あら?」
「どうしました?」
雲母は周囲を見回した。
「相談者の方は?」
「え?」
足立も振り返る。
家の裏。
脇道。
庭。
先ほどまで一緒にいた男性の姿がない。
「……いませんね」
「帰られたのですかね?」
「そうかもしれませんね」
「まあ」
雲母は空き家の隣に建つ住宅を見る。
「隣の家と仰っていましたし、報告に行きましょうか」
「そうですね」
二人は特に気にすることもなく、空き家の裏手を離れた。
*
隣の家の玄関前。
雲母がインターホンを押す。
しばらくして、中から足音が聞こえた。
玄関の扉が開く。
「はい?」
出てきたのは、見知らぬ女性だった。
「ごきげんよう」
雲母が軽く頭を下げる。
「先ほどご相談いただいた、隣の空き家の音についてですけれど」
「……はい?」
女性が不思議そうな顔をする。
「原因が分かりましたの」
「原因……?」
「ええ。雨樋の下にあります古い金具が――」
「あの」
女性が戸惑ったように雲母の話を止めた。
「何の話でしょうか?」
「……?」
雲母が首を傾げる。
「隣の空き家から音がするというご相談ですわ」
「音……」
女性は隣の家を見る。
「ああ」
何かを思い出したように頷いた。
「確かに、雨のあとに音がすることはありますけど」
「ええ。その件ですわ」
「でも……」
女性は二人を見る。
「私、誰にも相談してませんよ?」
「……」
「……」
雲母と足立が黙った。
「こちらに、男性の方はいらっしゃいますの?」
「男性?」
「四十代くらいの方ですわ。先ほどまで、わたくしたちと一緒にいらしたのですけれど」
「いえ……」
女性は困ったように首を横に振る。
「うちには、私しか住んでいません」
「……」
「その方のお名前は?」
雲母が男性から聞いていた名前を伝える。
女性はしばらく考えた。
「知らないですね……」
「こちらにお住まいでは?」
「違います」
「以前、住んでいらしたとか?」
「いえ」
女性はもう一度首を横に振った。
「少なくとも、私はそんな方を知りません」
「……そうですの」
雲母は少しだけ考える。
足立も、隣の空き家と目の前の女性を交互に見る。
「すみません」
足立が尋ねた。
「本当に、隣の音は聞いたことがあるんですよね?」
「ありますよ」
「雨の日とか、その次の日に?」
「ええ。夜に、カコンって」
「……」
足立が雲母を見る。
相談内容は合っている。
場所も合っている。
音も、本当に鳴っていた。
原因も分かった。
ただ。
相談した人物だけが、どこにもいない。
「……分かりましたわ」
雲母が女性へ軽く頭を下げる。
「突然失礼いたしました」
「いえ……」
「音の原因については、空き家の管理をされている方へお伝えいただければ直せると思いますわ」
「あ、はい……」
「では、ごきげんよう」
二人は家を離れた。
*
しばらく歩いてから。
「……足立さん」
「はい」
「先ほどの方」
「はい」
「あなたにも見えていましたわよね?」
「……見えてましたよ」
「普通に?」
「普通にです」
「お話も?」
「しましたよ」
「一緒にここまで来ましたわよね?」
「来ました」
「……」
「……」
二人は歩きながら黙り込んだ。
雲母が少し眉を寄せる。
「おかしいですわね」
「おかしいですね……」
「わたくしにも、普通の人間に見えましたわ」
「僕にもです」
「声も普通でしたわね」
「普通でした」
「……」
雲母は立ち止まった。
振り返る。
先ほどの空き家。
その隣の家。
どこにも、あの男性の姿はない。
「……なんだったんですの?」
「さあ……」
足立も振り返る。
「でも、僕にも見えていましたよね?」
「ええ」
「じゃあ、死者の意識じゃないんですよね?」
雲母は少し考えた。
「……分かりませんわ」
「でも、僕には死者の意識は見えないんでしょう?」
「今までは、そうでしたわね」
「じゃあ……」
「ですから」
雲母はもう一度、誰もいない道を見る。
「分かりませんわ」
「……」
「ただ」
雲母は小さく息を吐いた。
「あの方が何者だったのか、確認できなかった」
「はい」
「それだけですわね」
「……なんか、それが一番嫌ですね」
「そうですの?」
「そうですよ」
足立は空き家の方を見た。
「音の方が怪異だった方が、まだ分かりやすかったです」
「まあ」
雲母も少し考える。
「その点については、同感ですわね」
二人は再び歩き始めた。
隣の空き家から聞こえていた音には、ちゃんと原因があった。
雨水。
古い金具。
それだけだった。
では。
二人をそこまで連れてきた、あの男性は何だったのか。
なぜ、二人に相談したのか。
なぜ、そこへ案内したのか。
そして、どこへ消えたのか。
結局。
何一つ、分からなかった。




