第十八話 風呂場の黒いモヤ
「風呂場に、黒いモヤが見えるんです」
今回の相談者は、三十代ほどの女性だった。
「黒いモヤ、ですの?」
雲母が聞き返す。
「はい。最初は湯気かと思ったんです。でも、お風呂を使っていない時にも見えることがあって……」
「いつ頃から見えるようになりましたの?」
「一週間くらい前からです」
「そのモヤは、いつも同じ場所に?」
「はい。浴槽の中です」
「何か起きたりは?」
「いえ……」
女性は首を横に振った。
「ただ、見えるだけなんです。でも、何もないはずの浴槽に黒いものが溜まっているみたいで……気味が悪くて」
「それはそうでしょうね」
雲母は頷いた。
「では、確認いたしましょう」
「お願いします」
隣で話を聞いていた足立が、少し嫌そうな顔をする。
「……また黒いモヤですか」
「あら。何か問題でも?」
「僕には見えないんですよね?」
「おそらくは」
「ですよね……」
「ですが、何か別の現象が起きているのでしたら、足立さんにも分かるかもしれませんわ」
「別の現象が起きてる前提で話さないでくださいよ」
「まだ何も分かりませんもの」
「だから怖いんですって……」
*
案内された風呂場は、ごく普通のものだった。
脱衣所と洗面台。
その奥に、浴室がある。
「こちらです」
女性が浴室の扉を開けた。
浴槽に水は張られていない。
蓋も外され、中には何も入っていなかった。
少なくとも、足立にはそう見えた。
「僕には、普通の風呂場にしか見えませんけど」
「今も見えていますの?」
雲母が女性へ尋ねる。
「はい……」
女性は空の浴槽を指差した。
「中に、黒いモヤが……」
雲母も浴槽へ目を向ける。
「……あら」
「います?」
「ええ」
雲母には見えていた。
空の浴槽を覆うように漂う、黒いモヤ。
そして、その中に――一人の人間がいた。
浴槽の中で、激しく身体を動かしている。
顔を上げようとする。
何かに掴まろうとするように、両腕を伸ばす。
指先が浴槽の縁を掻く。
口を大きく開き、息を求めるように身体を震わせる。
だが、そこに水はない。
浴槽は空だった。
「……っ、ぁ……」
かすかな音が聞こえた。
声というより、押し潰された息のような音だった。
「雲母お嬢様?」
「何ですの?」
「何か話してるんですか?」
「いいえ……」
雲母は空の浴槽を見つめた。
「溺れているように見えますわね」
「……水、入ってませんよ?」
「ええ」
「…………」
「ですから、わたくしにも分かりませんわ」
浴槽の中の人物は、それでも必死にもがき続けている。
雲母が近づいた。
「あなた」
反応はない。
「わたくしの声が聞こえますの?」
「……っ、ぁ……!」
口が開く。
けれど、それは返事ではなかった。
「こちらが分かりますの?」
伸ばされた手が、再び浴槽の縁を掻く。
雲母を見ている様子はない。
ただ、存在しない水の中から逃れようとしている。
やがて身体の動きが弱くなった。
伸ばされていた腕が落ちる。
そのまま、動かなくなる。
そして――
黒いモヤとともに、姿が消えた。
「……消えました?」
足立が尋ねる。
「ええ」
「では、もう――」
「待ちなさい」
「え?」
しばらくすると、空の浴槽に再び黒いモヤが滲み出した。
その中に、先ほどと同じ人物が現れる。
顔を上げようとする。
腕を伸ばす。
口を開き、苦しそうに身体を震わせる。
最初から。
何事もなかったかのように、また溺れ始めた。
「……また現れましたわ」
「同じ人ですか?」
「同じように見えますわね」
「また溺れてるんです?」
「ええ」
「空っぽの浴槽で?」
「そうですわ」
「…………」
足立は何もない浴槽を見た。
当然、彼には何も見えない。
「声は聞こえるんですよね?」
「聞こえますわ」
「でも、話せない?」
「今のところは」
雲母は浴槽の中の人物を観察する。
話しかけても反応しない。
こちらへ意識を向ける様子もない。
ただ、溺れているような動きを繰り返している。
「この方」
雲母がぽつりと言った。
「溺れること以外へ、意識を向ける余裕がないように見えますわね」
「……話してる場合じゃないってことですか」
「おそらくは」
「じゃあ、前に話せた人たちとは違うんですね」
「そうですわね」
刺されて倒れていた男。
車に轢かれたと思われる死者。
あの二人は、少なくとも周囲へ意識を向けていた。
だから雲母の声に反応し、言葉を交わすことができた。
だが、目の前の人物は違う。
何も見ていない。
何も聞いていない。
ただ、死の直前と思われる状態を繰り返している。
「……以前の方々も」
雲母が呟いた。
「以前?」
「首を吊っていた方や、屋上から落ちていた方ですわ」
「ああ……」
「あの方々の声も、今なら聞こえるのかもしれませんわね」
「でも、話せるとは限らない?」
「ええ」
浴槽の中の人物が、再び動かなくなる。
消える。
そして、また現れる。
「聞こえることと、お話しできることは別のようですわね」
足立は何とも言えない表情で浴槽を見つめた。
「……声が聞こえるようになったから、もう少し色々分かるようになるのかと思ってました」
「わたくしもですわ」
「そうなんですか?」
「ええ」
雲母はあっさり答えた。
「ですが、声が聞こえたところで、相手がお話しできるとは限りませんもの」
「結局、分からないままですか」
「分からないものは仕方ありませんでしょう?」
「……ですよね」
死者がまた消えた。
しばらくすると、黒いモヤの中に同じ姿が現れる。
そして再び、空の浴槽で溺れ始めた。
*
「少なくとも、以前にも見たことのあるものと近いですわね」
調査を終え、雲母は相談者へ説明していた。
「黒いモヤそのものが、あなたに何かしている様子はありません」
「そうなんですか?」
「ええ。今のところ、危害を加えようとしているようには見えませんわ」
「よかった……」
女性が小さく息を吐く。
「ただ」
雲母は浴室の方を見る。
「見え方が変わったり、ほかにも何か起きたりしましたら、ご連絡くださいませ」
「分かりました」
二人は女性の家を後にした。
*
帰り道。
雲母はしばらく黙って歩いていた。
「……」
「雲母お嬢様?」
「何ですの?」
「何か気になります?」
「ええ……」
雲母は少し考える。
「足立さん」
「はい?」
「最近、黒いモヤが少し増えていませんこと?」
「……僕に聞きます?」
「あら?」
「見えませんよ、僕には」
「そうでしたわね」
「忘れないでくださいよ……」
「ですが」
雲母は歩きながら続ける。
「以前は、相談を受けて調査へ伺った先で見ることがほとんどでしたの」
「はい」
「それが最近は、街中でも見かけるようになりましたでしょう?」
「雲母お嬢様が、ですけどね」
「ええ。それに病院では、わたくし以外にも黒いモヤを見る方が現れましたわ」
「……そうでしたね」
「そして今回も、相談者には見えていましたわ」
足立も少し考える。
「では……本当に増えているんですか?」
「さあ」
「さあ、ですか」
「まだ分かりませんわ」
雲母はあっさり答えた。
「黒いモヤそのものが増えているのか、見える方が増えているのか。それとも、たまたま相談が続いただけなのか」
「今のところは判断できない?」
「ええ」
数歩進んだところで、雲母は足を止めた。
道行く人々。
並んだ建物。
通り過ぎていく車。
いつもと変わらない街並み。
「……」
「どうしました?」
「いえ」
雲母は周囲を見回し、少しだけ目を細めた。
「気のせいなら、よろしいのですけれど」
「……何か見えたんですか?」
「いいえ。今は何も」
「脅かさないでくださいよ……」
「あら。わたくしも、まだ何も分からないと言っているだけですわ」
「その言い方が怖いんですって」
「分からないものは分かりませんもの」
雲母は再び歩き始めた。
黒いモヤが本当に増えているのか。
それとも、見える人間が増えているのか。
ただ偶然、続けて目にしただけなのか。
今のところは、まだ何も分からなかった。




