↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残響  作者: れすた
18/40

第十八話 風呂場の黒いモヤ

「風呂場に、黒いモヤが見えるんです」


 今回の相談者は、三十代ほどの女性だった。


「黒いモヤ、ですの?」


 雲母が聞き返す。


「はい。最初は湯気かと思ったんです。でも、お風呂を使っていない時にも見えることがあって……」


「いつ頃から見えるようになりましたの?」


「一週間くらい前からです」


「そのモヤは、いつも同じ場所に?」


「はい。浴槽の中です」


「何か起きたりは?」


「いえ……」


 女性は首を横に振った。


「ただ、見えるだけなんです。でも、何もないはずの浴槽に黒いものが溜まっているみたいで……気味が悪くて」


「それはそうでしょうね」


 雲母は頷いた。


「では、確認いたしましょう」


「お願いします」


 隣で話を聞いていた足立が、少し嫌そうな顔をする。


「……また黒いモヤですか」


「あら。何か問題でも?」


「僕には見えないんですよね?」


「おそらくは」


「ですよね……」


「ですが、何か別の現象が起きているのでしたら、足立さんにも分かるかもしれませんわ」


「別の現象が起きてる前提で話さないでくださいよ」


「まだ何も分かりませんもの」


「だから怖いんですって……」


     *


 案内された風呂場は、ごく普通のものだった。


 脱衣所と洗面台。


 その奥に、浴室がある。


「こちらです」


 女性が浴室の扉を開けた。


 浴槽に水は張られていない。


 蓋も外され、中には何も入っていなかった。


 少なくとも、足立にはそう見えた。


「僕には、普通の風呂場にしか見えませんけど」


「今も見えていますの?」


 雲母が女性へ尋ねる。


「はい……」


 女性は空の浴槽を指差した。


「中に、黒いモヤが……」


 雲母も浴槽へ目を向ける。


「……あら」


「います?」


「ええ」


 雲母には見えていた。


 空の浴槽を覆うように漂う、黒いモヤ。


 そして、その中に――一人の人間がいた。


 浴槽の中で、激しく身体を動かしている。


 顔を上げようとする。


 何かに掴まろうとするように、両腕を伸ばす。


 指先が浴槽の縁を掻く。


 口を大きく開き、息を求めるように身体を震わせる。


 だが、そこに水はない。


 浴槽は空だった。


「……っ、ぁ……」


 かすかな音が聞こえた。


 声というより、押し潰された息のような音だった。


「雲母お嬢様?」


「何ですの?」


「何か話してるんですか?」


「いいえ……」


 雲母は空の浴槽を見つめた。


「溺れているように見えますわね」


「……水、入ってませんよ?」


「ええ」


「…………」


「ですから、わたくしにも分かりませんわ」


 浴槽の中の人物は、それでも必死にもがき続けている。


 雲母が近づいた。


「あなた」


 反応はない。


「わたくしの声が聞こえますの?」


「……っ、ぁ……!」


 口が開く。


 けれど、それは返事ではなかった。


「こちらが分かりますの?」


 伸ばされた手が、再び浴槽の縁を掻く。


 雲母を見ている様子はない。


 ただ、存在しない水の中から逃れようとしている。


 やがて身体の動きが弱くなった。


 伸ばされていた腕が落ちる。


 そのまま、動かなくなる。


 そして――


 黒いモヤとともに、姿が消えた。


「……消えました?」


 足立が尋ねる。


「ええ」


「では、もう――」


「待ちなさい」


「え?」


 しばらくすると、空の浴槽に再び黒いモヤが滲み出した。


 その中に、先ほどと同じ人物が現れる。


 顔を上げようとする。


 腕を伸ばす。


 口を開き、苦しそうに身体を震わせる。


 最初から。


 何事もなかったかのように、また溺れ始めた。


「……また現れましたわ」


「同じ人ですか?」


「同じように見えますわね」


「また溺れてるんです?」


「ええ」


「空っぽの浴槽で?」


「そうですわ」


「…………」


 足立は何もない浴槽を見た。


 当然、彼には何も見えない。


「声は聞こえるんですよね?」


「聞こえますわ」


「でも、話せない?」


「今のところは」


 雲母は浴槽の中の人物を観察する。


 話しかけても反応しない。


 こちらへ意識を向ける様子もない。


 ただ、溺れているような動きを繰り返している。


「この方」


 雲母がぽつりと言った。


「溺れること以外へ、意識を向ける余裕がないように見えますわね」


「……話してる場合じゃないってことですか」


「おそらくは」


「じゃあ、前に話せた人たちとは違うんですね」


「そうですわね」


 刺されて倒れていた男。


 車に轢かれたと思われる死者。


 あの二人は、少なくとも周囲へ意識を向けていた。


 だから雲母の声に反応し、言葉を交わすことができた。


 だが、目の前の人物は違う。


 何も見ていない。


 何も聞いていない。


 ただ、死の直前と思われる状態を繰り返している。


「……以前の方々も」


 雲母が呟いた。


「以前?」


「首を吊っていた方や、屋上から落ちていた方ですわ」


「ああ……」


「あの方々の声も、今なら聞こえるのかもしれませんわね」


「でも、話せるとは限らない?」


「ええ」


 浴槽の中の人物が、再び動かなくなる。


 消える。


 そして、また現れる。


「聞こえることと、お話しできることは別のようですわね」


 足立は何とも言えない表情で浴槽を見つめた。


「……声が聞こえるようになったから、もう少し色々分かるようになるのかと思ってました」


「わたくしもですわ」


「そうなんですか?」


「ええ」


 雲母はあっさり答えた。


「ですが、声が聞こえたところで、相手がお話しできるとは限りませんもの」


「結局、分からないままですか」


「分からないものは仕方ありませんでしょう?」


「……ですよね」


 死者がまた消えた。


 しばらくすると、黒いモヤの中に同じ姿が現れる。


 そして再び、空の浴槽で溺れ始めた。


     *


「少なくとも、以前にも見たことのあるものと近いですわね」


 調査を終え、雲母は相談者へ説明していた。


「黒いモヤそのものが、あなたに何かしている様子はありません」


「そうなんですか?」


「ええ。今のところ、危害を加えようとしているようには見えませんわ」


「よかった……」


 女性が小さく息を吐く。


「ただ」


 雲母は浴室の方を見る。


「見え方が変わったり、ほかにも何か起きたりしましたら、ご連絡くださいませ」


「分かりました」


 二人は女性の家を後にした。


     *


 帰り道。


 雲母はしばらく黙って歩いていた。


「……」


「雲母お嬢様?」


「何ですの?」


「何か気になります?」


「ええ……」


 雲母は少し考える。


「足立さん」


「はい?」


「最近、黒いモヤが少し増えていませんこと?」


「……僕に聞きます?」


「あら?」


「見えませんよ、僕には」


「そうでしたわね」


「忘れないでくださいよ……」


「ですが」


 雲母は歩きながら続ける。


「以前は、相談を受けて調査へ伺った先で見ることがほとんどでしたの」


「はい」


「それが最近は、街中でも見かけるようになりましたでしょう?」


「雲母お嬢様が、ですけどね」


「ええ。それに病院では、わたくし以外にも黒いモヤを見る方が現れましたわ」


「……そうでしたね」


「そして今回も、相談者には見えていましたわ」


 足立も少し考える。


「では……本当に増えているんですか?」


「さあ」


「さあ、ですか」


「まだ分かりませんわ」


 雲母はあっさり答えた。


「黒いモヤそのものが増えているのか、見える方が増えているのか。それとも、たまたま相談が続いただけなのか」


「今のところは判断できない?」


「ええ」


 数歩進んだところで、雲母は足を止めた。


 道行く人々。


 並んだ建物。


 通り過ぎていく車。


 いつもと変わらない街並み。


「……」


「どうしました?」


「いえ」


 雲母は周囲を見回し、少しだけ目を細めた。


「気のせいなら、よろしいのですけれど」


「……何か見えたんですか?」


「いいえ。今は何も」


「脅かさないでくださいよ……」


「あら。わたくしも、まだ何も分からないと言っているだけですわ」


「その言い方が怖いんですって」


「分からないものは分かりませんもの」


 雲母は再び歩き始めた。


 黒いモヤが本当に増えているのか。


 それとも、見える人間が増えているのか。


 ただ偶然、続けて目にしただけなのか。


 今のところは、まだ何も分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。