第九話 カミソリは、刃物なのに優しくなければならない
翌朝。
俺は夜明けより早く、ドルグの工房に立っていた。
眠れなかった。
浄鉄の箱は、昨夜からずっと枕元に置いてあった。盗まれる心配なんて、たぶんない。そもそも、ドワーフの集落で神代の鉄を盗むような真似をすれば、盗まれた側より盗んだ側が先に全住民から半殺しにされる。
それでも、手の届く場所に置いておかないと落ち着かなかった。そして起きた瞬間、一番に箱を確かめた。
ある。
白銀色の鉄も、ある。
「……よし」
俺は胸元まで伸びた髭を握りしめた。
「今日は、お前の命日だ」
「朝から物騒なことを言うな」
背後からドルグの声が飛んできた。振り返ると、彼は寝起きとは思えないほど、完璧に髭を整えていた。白い髭はきっちり編み込まれ、先端には小さな金具までついている。
「ドルグさんこそ、朝から髭が完成されすぎじゃないですか」
「鍛冶師は、火床と髭を整えてから一日を始める」
「俺は髭を整えてから、髭を消したいんです」
「矛盾しとる」
「分かってます」
ドルグは鼻を鳴らし、工房の扉を開けた。
「入れ。まずは形を決める」
◇ ◇ ◇
作業台の上には、木炭、薄い木板、定規代わりの細い金属棒、そして昨日の浄鉄の箱が置かれていた。ドルグは腕を組み、俺を見る。
「言え。どんな刃にする」
「薄く」
「どれくらいだ」
「……薬草の葉と同じぐらい?」
「若葉や本葉、乾いてるのと摘んだばかり。状態によって違うだろうが。」
「すみません」
分かってはいた。前世でカミソリを使っていたが、刃の厚みや角度を正確に説明できるわけではない。俺はユーザーだった。作る側ではない。
だが、営業でも同じだった。顧客が欲しがっているものを、最初から正確な専門用語で言えるとは限らない。だから話を聞き、使う場面を想像し、必要な仕様へ落とし込む。
「……薄いけど、弱すぎないもの」
「当たり前だ」
「肌に当てたとき、引っかからないもの。髭だけを切って、皮膚は切らないもの」
「刃物に、そんな都合のいいことを求めるな」
「でも、カミソリはそういう道具なんです」
ドルグの眉が、ぴくりと動いた。
俺は木板に絵を描き始めた。
柄。その先に、細い刃。刃の角度。肌に対して、寝かせるように当てる。
「前の世界では、こういう形でした」
「……剣でもナイフでもない……どちらかといえば、ピーラーか……」
「髭だけを剃るための道具ですから」
「使い手が下手なら、顔を切る」
「それは、まあ……そうです」
「それでも使うのか」
「使います」
即答だった。
ドルグは、しばらく俺の描いた図を見ていた。
「この刃は、何のためにある」
「髭を切るために」
「違う」
昨日と同じ問いだった。俺は少しだけ笑った。
「……自分を整えるために」
ドルグは何も言わなかった。ただ、木板の上に太い指を置く。
「なら、刃だけじゃ足りん。持ち手も、使い手の手に合わなきゃならん」
「はい」
「刃の重さ、柄の太さ、指のかかり。全部、お前の手に合わせる」
そう言うと、ドルグは木の棒を取り出した。
「握れ」
言われるまま握る。
「強く握るな。剃るときの手だ」
「剃るときの手?」
「刃物を振る手じゃないんだろう」
俺は、前世の朝を思い出した。T字カミソリを持つとき、力は入れない。軽く、肌の上を滑らせる。顎の曲線に沿って、何度か短く動かす。木の棒を持つ指先から、少し力を抜く。
「……こうです」
「ほう」
ドルグは俺の手の形を見て、木炭で何かを書きつけた。次に、失敗作の細身のナイフを取り出す。
「これと比べろ」
「はい」
俺はナイフを握った。鋭い。繊細だ。だが、柄は武器として使うための形で、顔の近くで細かく扱うには少し重い。
「これだと、手首が疲れます。刃の向きも、ちょっと怖い」
「怖い?」
「顔に当てるには、刃がむき出しすぎます。剃るときは……刃先だけが髭に触れるくらいでいい」
「刃を隠すのか」
「全部ではないです。肌の上を滑らせるために、少しだけ守るというか」
俺は木板に、もう一つ図を描いた。刃の両側に小さな金具を付ける。深く食い込みすぎないように、肌へ当たる角度を一定にする。
「こんな感じです。これなら、刃が直接、深く当たりすぎない」
「……皮を守るための枠か」
「はい」
「面白い」
ドルグが初めて、はっきりそう言った。職人の目になっていた。
◇ ◇ ◇
浄鉄を炉へ入れる前に、ドルグは普通の鋼で試作を作ると言った。
「いきなり神代の鉄を打つほど、ワシも馬鹿じゃない」
「昨日、“一度きりの願いに使え”って格好いいこと言った人が」
「だからこそ失敗せん」
ごもっともだった。ドルグは、普通の鋼を炉で赤く熱する。
カン。
カン、カン。
ハンマーの音が響く。
細い鉄が薄く伸ばされる。失敗作のナイフよりも、さらに薄く。だが、刃物としてはあまりに小さい。俺はその様子を、息を詰めて見守った。
これが、カミソリになる。俺の人生を……いや、顎を救う道具になる。
「タカハシ」
「はい」
「見とるだけじゃなく、ふいごを踏め」
「はい!」
夢中で踏む。火が強くなる。炉の奥で鉄が赤く、やがて白くなる。汗が背中を流れた。髭にも汗が染みる。
「うわ、暑い……」
「髭に汗が溜まっとるぞ」
「今言わないでください」
ドルグが、ほんの少し笑った気がした。
打ち上がった刃を桶の水にくぐらせ、ドルグは砥石を取り出した。しゃり、しゃりと、地味な音が工房に響く。派手さはないが、この作業を抜くと刃はただの金属の板だ。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
普通の鋼で作られた試作カミソリが、作業台に置かれた。
木製の柄。細い刃。刃の両端に、肌へ当たりすぎないよう小さな支え。前世の安全カミソリとは少し違う。
だが、間違いなく「髭を剃るための刃」だった。俺はそれを前にして、動けなかった。
「……使ってみるか」
ドルグが言う。
「え?」
「普通の鋼だ。髭を全部剃れるほどの切れ味はないかもしれん。だが、形が合っとるかは分かる」
俺の喉が鳴った。使える。剃れるかもしれない。
俺は試作カミソリを手に取った。軽い。柄が手になじむ。前世のT字とは違うが、指先に伝わる感覚は近い。
俺は金属板の前に座った。胸の奥が、うるさいほど鳴っている。顎の髭へ、刃を近づける。
あと少し。あと、ほんの少しで。
「待て」
ドルグの声が飛んだ。俺の手が止まる。
「……何ですか」
「泡はどうする」
「泡?」
「顔を洗って、何か塗るんじゃなかったのか」
「あ」
そうだった。前世では、ぬるま湯で肌を温め、シェービングジェルを塗っていた。何もつけずに剃れば、肌を傷める。刃も引っかかる。剃りたい気持ちが先走りすぎて、完全に忘れていた。
「ありますか? 石鹸とか」
「ある。だが髭に使うもんじゃねぇ」
「今日から使います」
「勝手にしろ」
ドルグは棚から、固形の石鹸らしきものを取り出した。俺は湯を沸かし、顔を洗う。温かい湯が髭へ染み込む。石鹸を泡立てようとして……止まった。
泡が、髭に絡む。思った以上に、絡む。
「……これ、洗い流すの大変そうですね」
「当たり前だ。何を今さら言っとる」
「前世では、こんな長さの髭、剃ってなかったんで」
ドルグは腕を組み、俺の髭と石鹸を見比べた。
「まず、泡を流しきる方法を考えろ」
「はい」
「次に、剃った髭をどうするかも考えろ」
「剃った髭?」
「その量が床に落ちたら、掃除が面倒だ」
「……確かに」
カミソリを作るだけでは足りない。
泡、湯、刃、剃った髭の処理、肌の手入れ
前世では当たり前だった一連の工程が、この世界ではまだ何一つ整っていない。俺は石鹸泡だらけの髭を見下ろした。そして、ゆっくりと試作カミソリを置いた。
「今日は、剃りません」
「ほう」
「剃るなら、ちゃんと剃ります。中途半端にして、肌も髭もぐちゃぐちゃにするのは……違う」
言ってから、自分で少し驚いた。以前の俺なら、刃があるなら今すぐ剃っていたはずだ。でも今は、髭を剃るからこそ、雑に扱いたくないと思った。
髭を洗い流した俺は、薄い木板と木炭を取り出した。まずは髭以外の毛で試す必要がある。腕毛か、すね毛か。俺は自分の腕と脚を見下ろした。
「……明日は、腕……からだな」




