第十話 髭より先に、腕毛が消えた
作業台の上に、試作のカミソリが三本並んでいた。一号、二号、三号。
刃の角度が違う。肌を守るための支えの幅も違う。柄の太さと重さも、少しずつ違う。どれも普通の鋼で作られたものだ。浄鉄は、まだ箱の中に眠っている。
「打ちながら思ったんだが、いきなり髭に使うのは…」
ドルグが腕を組んだまま言った。
「分かってます」
俺も、さすがに分かっている。いくら髭を剃りたいからといって、試作一号を胸元まで伸びた髭へ突っ込むほど、頭は悪くない。
……たぶん。
「刃の角度。柄の握り。支えが肌にどう当たるか。確かめることは山ほどある」
「はい」
「失敗して顔を切ったら、浄鉄を打つ意味がなくなる」
「はい」
「だから、まずは別の毛で試せ」
ドルグは、俺の髭から視線を外し、腕のあたりを見た。
「腕毛とか」
「俺もそう考えていました。」
俺は自分の腕を見る。ドワーフの体になってから、腕も前世より太くなった。筋肉がつき、毛も増えた。正直、気にはなっていた。しかし髭という大問題があるせいで、腕毛やすね毛はずっと後回しだった。
「……確かに、髭より短い」
「範囲も狭い」
「失敗しても、社会的には死にません」
「お前の社会的な基準は、髭だけでできとるのか」
「この集落では、かなりそうです」
俺は試作カミソリの一本、一号を手に取った。柄は少し重いが、刃の支えが広い。試すなら、一番安全そうなこれからだ。
「じゃあ、やります」
「ここでか」
「ここでです」
「見せるな」
「ドルグさんが試せって言ったんでしょう」
俺は袖をまくった。腕には、短く太い茶色の毛が生えている。髭ほどの存在感はないが、前世の俺よりは明らかに濃い。
桶のぬるま湯で腕を温める。昨日試作した泡に、薬草屋の老婆から分けてもらった若いぬめり葉の汁を混ぜる。粘りのある泡を、腕へ塗った。
「うっ、なんか…微妙…」
「その匂いもなんとかならんのか。」
「匂いについては今後の検討課題です。それより肌への感覚が…」
「知らん。とっととやれ。」
深呼吸する。腕の上へ、刃を置く。顔ではない。髭でもない。
だが……
いつ以来だろう。転生してから初めて、自分の体の毛を自分の意志で剃る。手首に余計な力を入れない。刃を少し寝かせる。ゆっくり、手前へ引く。
す、と。
泡の下から、毛のない肌が現れた。
「……」
俺は固まった。ドルグも黙っている。
もう一度、刃を引く。
す。
また、毛が消えた。剃れた。腕毛が、剃れた。
「……剃れた」
声が震えた。腕の一部分だけ、明らかに色が違う。茶色の毛に覆われていた場所が、なめらかな肌を見せている。指先で撫でる。
つる。
「つるつるだ……!」
思わず立ち上がった。
「ドルグさん、見てください! 俺の腕!」
「見せるな。朝から男の腕を見せるな」
「毛がないんです! 見て、この感触! つるつるですよ!」
「うるさい」
だが、ドルグもちらりと腕を見た。そして、ほんの少しだけ眉をひそめる。
「……確かに、毛がないな」
「でしょう!」
「気持ち悪い」
「なんでですか!?」
「昨日まで生えとったものが、急に消えとる」
「剃ったからです!」
「分かっとる」
俺は腕を撫で続けた。
つるつる。
すべすべ。
前世では当たり前すぎて、腕毛を剃っただけで感動することなんてなかった。
だが今は違う。異世界に来て、ドワーフになって、身体中の毛という毛が「生えていて当然」になったあとで。
初めて、自分の意志で毛を減らせた。その事実が、たまらなく嬉しかった。
「次は、すね毛です」
「なぜすね毛を…」
「毛質の違いを検証します」
「急に職人ぶるな」
「大事なことです。腕毛は柔らかくて寝てます。でも、すね毛は太くて立ってる。髭に近い条件です」
「近くないことはないが…髭を剃りたいんじゃないのか。」
「髭はいきなり試せないんです!」
俺は椅子に座り、ズボンの裾をまくり上げた。露わになったすねには、腕よりも太く、硬そうな毛がびっしり生えている。
ドワーフ、毛が多すぎる。
「……これは、ちょっと手強そうですね」
「今さら何を言っとる」
ぬるま湯をかける。泡を塗る。一号の刃を当てる。
す。
「……あ」
途中で引っかかった。
「痛っ」
見ると、肌が少し赤くなっている。剃れた毛もあるが、刃が深く入りすぎている。
ドルグがすぐに近づいた。
「止めろ」
「もう少しなら」
「止めろ」
珍しく強い声だった。俺は渋々、刃を離す。ドルグはすねを覗き込み、赤くなった部分を指差した。
「支えの幅が狭すぎる。毛が太いと、刃が引っ張られる」
「……泡の粘りも足りないかも」
「柄も滑っとる。手首に力が入った」
「確かに。腕より角度を寝かせたほうがよさそうです」
俺は赤くなったすねを撫でながら、頭の中で整理する。腕毛は剃れた。すね毛は引っかかった。毛質、肌の曲面、刃の角度、泡の粘り、柄の滑りにくさ。髭を剃るためには、まだ足りないものが多い。だがこれは失敗ではない。
「ドルグさん。二号を見せてください」
「もうやる気か」
「検証です」
「すねは休ませろ」
「はい。今日は反対側で」
「休ませろと言っとるだろうが!」
ドルグの怒鳴り声が、工房に響いた。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
俺は工房の外で、丸太に座っていた。左腕は、肘から手首にかけて一部分だけつるつる。右すねは、途中だけ毛がなく、その下が少し赤い。我ながら、ひどい見た目だった。
「……変だな」
通りかかったガロンが、俺の腕を見て足を止めた。
「何がです?」
「その腕。途中だけ毛がないぞ」
「試作品の検証です」
「何の試作品だ?」
まずい。
俺は反射的に、口から出任せを言った。
「ピーラーです」
「ピーラーで腕毛を剥いたのか!?」
「違います! 刃物の角度が似てるので!」
「もっと分からん!」
ガロンは、俺の右すねを見る。
「こっちもか」
「毛質の違いを」
「お前、たまに本気で意味が分からん」
言い返せなかった。髭を剃るために、腕毛とすね毛を剃っている。説明すればするほど、変人にしか聞こえない。ガロンはしばらく俺を眺めていたが、やがて大きく笑った。
「まあ、ドルグのところにいると変なことを覚えるんだな!」
「俺が持ち込んだんですよ!」
「なんだって?」
「何でもないです!」
ガロンが去ったあと、俺は右腕を撫でた。やはり、つるつるだった。その感触だけで、赤くなったすねの痛みが少しだけ薄れる。
◇ ◇ ◇
夕方。
ドルグは、作業台の端に置いていた二号を取り上げた。
今度の柄には、細かな刻みが入っている。泡や湯で手が濡れても、滑りにくくするためだ。刃の支えも、少し広い。
「二号だ」
「ありがとうございます」
「すねは、今日はもう剃るな」
「分かっています」
「本当か?」
「……たぶん」
「信用ならん」
俺は新しい試作カミソリを手に取った。
まだ髭には届かない。だが、昨日までただの絵だったカミソリは、もう俺の腕毛を剃った。すね毛を少し失敗させた。そして、その失敗をもとに改良されている。
刃物が少しずつ、俺の体に合わせて形を変えていく。それが、妙に嬉しかった。
「ドルグさん」
「なんだ」
「浄鉄を使う前に、もう少し試したいです」
「当然だ」
「髭を剃るときは、失敗したくないので」
「……当然だ」
ドルグは、少しだけ満足そうにうなずいた。
俺はつるつるになった右腕を、もう一度撫でる。
いつか。
この感触を、顎で味わう。そのためなら、腕毛もすね毛も、何本でも差し出してやる。
ただし今日は、もう剃らない。ドルグが怖いからではない。明日、より良い刃で剃るためだ。
……半分くらいは、ドルグが怖いからだった。




