第十一話 浄鉄の刃は、髭のために光る
その後も試作は続いた。二号、三号、四号、五号。
試作二号は、一号よりもすね毛に抗われた。試作三号は、すね毛を途中で止めずに剃り切った。試作四号は、泡の量を減らしても刃が引っかからなかった。そして試作五号は、濡れた手でも柄が滑らなかった。
「……悪くない」
俺は左腕と右すねを撫でながら、深くうなずいた。
左腕はつるつる。右すねもつるつる。
何度も試作を繰り返した結果、俺の体は左右で毛の状態が違っていた。右すねは、以前失敗した部分だけ少し赤いが、もう痛みは引いている。
ただし、全身の毛を均一に剃るという目標には、まだ遠い。なにせ、左右で状態が違いすぎる。
「お前、なんで片腕と片脚だけ毛がないんだ?」
朝市で買い出しをする若いドワーフの一人が、俺の姿を見て首を傾げた。
「試作です」
「何の?」
「……生活道具の」
「どんな生活をしたら、腕と脚の毛が途中から消える?」
「未来の生活です」
「意味が分からん」
分かられなくていい。俺は未来の顎のために、今、腕とすねを差し出しているのだ。
試作カミソリは、ようやく形になった。柄は濡れても滑りにくく、指が自然にかかる。刃の角度は、肌の上を軽く滑らせるだけで毛を捉える。支えの幅は、毛の太さが変わっても深く入りすぎない。泡にはぬめり葉の若い汁を混ぜ、少しだけ香草を加えた。洗い流しやすく、肌も赤くなりにくい。前世で当たり前に買っていたカミソリとシェービングジェル。この世界では、それを一つずつ、俺とドルグで作った。
「……これなら」
俺は、作業台の端に置かれた浄鉄の箱を見た。
「いけます」
◇ ◇ ◇
翌朝。
ドルグは、何も言わずに工房の炉へ火を入れた。俺も何も言わず、ふいごを踏んだ。いつもより早い時間。工房には、炉の火が鳴る音だけがある。
ごう、ごう、と。
火が息を吸うように揺れる。
ドルグは俺から渡された箱を開け、浄鉄の箱を取り出した。
「最後に聞く」
白銀の鉄を前に、彼は言った。
「何のために打つ」
俺は、迷わなかった。
「自分の髭を剃るために」
「……そうだ」
ドルグは短く答えた。それ以上の言葉はなかった。
浄鉄が、炉へ入れられる。白銀の金属は、すぐには赤くならなかった。火の中で、ただ淡く光っている。やがて光が強くなる。赤ではない。橙でもない。白い。まるで火の中に、小さな月が落ちたようだった。
「出すぞ」
「はい」
ドルグが火ばさみで浄鉄を取り出し、金床へ置く。
カン。
最初の一打で、工房の空気が震えた。音が違う。普通の鉄より高く、澄んでいる。鍛冶の音というより、遠くで鐘を鳴らしたような響きだった。
カン。
カン、カン。
ドルグの槌が振り下ろされるたび、浄鉄が薄く伸びていく。俺はふいごを踏み続けた。汗が流れ、髭にも汗が溜まるが、今日は気にならなかった。
目の前で、自分の髭を剃るための刃が生まれている。その光景だけで、胸がいっぱいだった。
「もう少し火を強く!」
「はい!」
「ふいごを踏む足が遅い!」
「感動してるんです!」
「感動しながら踏め!」
怒鳴られながら、俺は必死に足を動かす。浄鉄は薄く、さらに薄く伸ばされていく。失敗作ナイフよりも薄い。試作カミソリよりも均一で、なめらかだ。ドルグは刃の角度を整え、支えとなる金具を打ち出した。
柄の部分には、俺の指を置く位置に合わせた小さな彫りが入る。滑り止めと、正しい角度を示すための印だ。
「タカハシ。握れ」
「え?」
「柄の形を最終確認する」
まだ熱の残る刃は、布で包まれている。俺は恐る恐る柄を握った。手に、ぴたりとなじんだ。
軽い。だが軽すぎない。指先に力を入れなくても、正しい角度へ導かれる形。
「……完璧です」
「まだ言うな」
ドルグは柄を取り戻し、最後の仕上げへ入った。
刃を研ぐ。しゃり、しゃり、と石の上を滑る音。薄い刃の表面に、白い光が走る。
そのとき。
浄鉄の刃が、ふわりと輝いた。
「……?」
俺は目を細めた。炉の火が反射しているだけではない。刃そのものが、淡く、白く光っている。ドルグも手を止めた。
「浄鉄だから、ですかね」
「……ワシも浄鉄を打ったことはない。だが、ただの鉄がこんな光り方をするわけがない」
ドルグは、白い刃を火から遠ざけた。それでも、光は消えなかった。むしろ、俺の手元へ近づけるほど、明るくなる。白い光が、工房の煤けた壁を照らした。まるで刃が、俺を見つけたと言わんばかりに。
「……俺の髭を剃りたがってる」
「刃物に意思はない」
「でも、今、絶対に剃りたがってます」
「お前が剃りたがっとるだけだ」
正論だった。だが、刃の光は消えなかった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
ついにカミソリは完成した。作業台の上に置かれたそれは、前世で使っていたどんな高級カミソリよりも美しかった。
白銀の刃。手になじむ柄。肌を守るための支え。そして、触れていなくても分かるほどの鋭さ。
ただの道具だ。ただの、髭を剃る道具。
なのに……
俺にとっては、異世界へ来てからずっと探していた宝物だった。
「……ドルグさん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
言おうと思っていた言葉は、もっといろいろあった。髭を剃りたいという馬鹿げた願いを、笑わずに聞いてくれたこと。家政夫として置いてくれたこと。ピーラーを一緒に作ってくれたこと。
そして今、この刃を打ってくれたこと。
でも、口から出たのはそれだけだった。ドルグは、白い髭を撫でながら鼻を鳴らす。
「剃るなら、ここではやるな」
「え?」
「工房の床を髭だらけにするな。掃除が面倒だ」
「そこですか」
「それと、泡も湯も用意しろ。慌てて顔を切るな」
「はい」
「刃は、使い手の覚悟を映す。忘れるな。それと……上手く剃れたら、見せに来い」
最後の一言だけ、やけに小さかった。
俺は笑った。
「はい」
革箱へカミソリをしまおうとしたときだった。刃が、急に強く光った。
「うわっ」
白い輝きが、工房の中を満たす。細い光が一本、刃から伸びた。それは工房の天井をすり抜け、岩山の裂け目を抜け、青空へ昇っていく。
昼の光に紛れるほど淡い。それでも確かに、空の高みまで届く白い柱だった。
「……おい」
ドルグの声が低くなる。
「今の、外から見えたか?」
「見えたと思います」
ドルグは、白く光る刃を見下ろした。
「ワシは今、何を鍛え上げた」
「カミソリです」
「……カミソリが天を照らすか」
「俺に聞かれても!」
やがて、光の柱は消えた。しかし、カミソリの刃には、まだ白い光が淡く宿っている。
俺は革箱を抱きしめた。
ようやく手に入れた。髭を剃るためだけの、俺だけの刃。
そのはずだった。
◇ ◇ ◇
北辺山脈から、馬で数日離れた街道。小さな馬車が、ゆるやかな坂道を進んでいた。
「……これは」
馬車の中で、金髪のエルフが目を開いた。彼女の掌に置かれた水晶が、白く脈打っている。
金髪碧眼の美しい女。
背筋を伸ばし、窓の外に見える遠い山々を見つめる横顔は、冷たく神秘的だった。
「魔王を滅ぼし得る、浄化の刃」
隣で干し肉をかじっていた少女が、勢いよく顔を上げた。
「聖剣ですか!?」
「ええ」
エルフの賢者、エルヴィラは答えた。けれどその視線は、白い光が立ち昇った北辺山脈よりも、彼女の魔力水晶に映った別のものへ向けられていた。
白い光の中心。
そこに、一瞬だけ見えた。豊かに波打つ、茶色の髭。
「とても、立派な髭の持ち主がいる場所に」
「今なんて言いました?」
「何でもありません」
エルヴィラは水晶をそっと閉じ、静かに立ち上がった。
「急ぎましょう、勇者アリシア」
「はい! 伝説の聖剣を手に入れて、魔王を倒しましょう!」
勇者アリシアは、干し肉を飲み込むと勢いよく立ち上がった。その拍子に馬車が揺れ、彼女の頭が天井にぶつかる。
「痛っ!」
「落ち着きなさい」
「大丈夫です! お腹が空いただけなので!」
「頭を打った理由になっていません」
こうして、カミソリが完成したその日に、俺の髭剃り計画へ、最悪の障壁が生まれた。




