第十二話 神剃りと誤解された朝
特製のカミソリを手に入れてから、三日が経っていた。浄鉄の刃は、革箱の中で静かに眠っている。
朝も、昼も、夜も、俺は何度も箱を開けた。光にかざし、指で柄を撫で、刃の角度を確認する。
なのに、顎へは一度も当てられなかった。
失敗が怖い。肌を切ったらどうする。切りすぎて、まだらになったらどうする。
それ以上に引っかかったのは、別の感情だった。ここまで伸ばし、整え、油をなじませ、ときには防寒具代わりにもなったこの髭を、本当に消していいのか。
集落の誰もが「立派だ」と言った。子どもたちは触りたがり、市場では「ドルグ工房の若い髭」として顔を覚えられた。前世の俺なら一蹴したはずの評価を、今の俺は少しだけ受け入れてしまっている。
四日目の朝、俺は工房の裏手で深く息を吸った。
「……今日こそ」
迷いは、もういらない。剃るために、ここまで来た。整えたのも、試したのも、全部そのためだ。
革箱を開ける。白銀の刃が、朝日を受けて淡く光った。いつもより、少し強い。いや、気のせいだろう。
柄を握ると、手にぴたりとなじんだ。ドルグが、俺の手に合わせて打ってくれた刃だ。もう、逃げ道はない。
胸元まで伸びた髭を左手でまとめ、ぬるま湯で湿らせてから、泡を塗った。粘り気のある泡が、毛の一本一本に絡んでいく。
その瞬間だった。
刃が、光った。
朝日の反射ではない。刃の内側から、白い光が溢れ出した。浄鉄に宿った加護が、初めて本格的に反応したのか。光は一瞬で強くなり、工房の壁を白く染める。
「っ……!」
慌てて刃を革箱へ戻す。光はすぐに収まった。
だが、遅かった。集落の入口の方から、複数の足音が近づいてくる。急ぎ足だ。しかも、聞き慣れない声まで混じっている。
「光はこちらです!」
「間違いありません。聖剣の反応です!」
俺は顔をしかめた。知らない声だ。しかも、なんだか聖剣とか言っている。
工房の前へ出ると、すでに数人が立っていた。先頭にいるのは、金色の髪を短くまとめた少女だった。見た目は十七歳前後。剣を背負い、瞳を輝かせている。その隣には金髪のエルフがいた。長い耳と冷静そうな顔。手には水晶を持っている。どう見ても、賢者枠だ。
「あなたが、光を放った方ですか」
エルフが静かに尋ねた。
「……はい。でも、別に怪しいものじゃ――」
「剣聖様!」
金髪の少女が、突然その場に跪いた。
「ようやくお会いできました! 私は勇者アリシア。神託により、聖剣と共に魔王を討つ者です!」
「は?」
話がまったく見えない。
「その箱に反応があります」
エルフが水晶を掲げた。
「中のものを見せていただけますか」
断る理由が見つからない。というより、この二人の勢いが強すぎた。俺は仕方なく、革箱を差し出した。
エルフが蓋を開ける。白銀の刃が、再び淡く光った。
「……美しい」
エルフが、息を呑む。
「これが、伝説の聖剣……」
「違います」
俺は即座に否定した。
「これはカミソリです」
周囲が、しん、と静まった。
「かみそり……? エルヴィラ、知ってる?」
アリシアが、初めて聞く単語のように首を傾げる。
「聞いたことのない武器名です。どこの流派のものですか」
「武器じゃありません。道具です」
「道具、ですか」
「はい。髭を剃るための刃物です」
言い切った。これでもう、誤解は解けるはずだ。俺はそう思っていた。
「……髭を、剃る」
エルヴィラと呼ばれたエルフは、その言葉を反芻するように呟いた。水晶を握る手に、わずかに力がこもる。
「カミソリ」
「はい」
「神を、剃る」
「いや、そうじゃなくて――」
「神剃り」
「発音が同じなだけです!」
「神をも剃り落とす、真なる聖剣……」
「勝手に話を作らないでください!」
エルヴィラは、俺の抗議を聞いているのかいないのか、水晶を胸の前で抱きしめるようにして、恍惚とした表情を浮かべていた。
「なんと美しい響き……」
「美しくないです。ただの髭剃りです」
「いいえ」
エルヴィラは、ゆっくりと首を振った。
「考えてもごらんなさい。“神をも剃り落とす”とは、神の尊厳たる御髪すら断つ力を持つということ。魔王ごとき、髭の一本にも及ばぬ存在でしょう」
「神様の髭を剃り落としたら、まずいでしょう。冒涜ですよ、それ」
「剣聖様は謙遜されるのですね!」
アリシアが目を輝かせる。
「すごい……! 剣聖様は、神の髭すら剃れるのですね!」
「剃れません」
どうやら、言葉だけでは解決しないらしい。
「では、証明していただけますか」
エルヴィラが、静かに言った。
「本当に髭を剃るためだけの刃物だと言うのなら、今ここで、その髭を剃ってお見せなさい」
空気が凍った。
「……は?」
「証明です。言葉だけでは信じられません」
「いや、ここで、衆人環視の中で、いきなり……?」
「できないのですか?」
「できるかできないかじゃなくて、状況が!」
そのとき、後ろから低い声が割って入った。
「待て」
ドルグだった。白い髭をきっちり整え、腕を組んでいる。いつもの不機嫌な顔より、さらに険しい。
「その刃が何であろうと、ここではならん」
「ドルグさん」
「髭を剃ることは、我らの禁忌だ。この集落の中で、それをやらせるわけにはいかん」
周囲のドワーフたちが、一斉にうなずいた。子どもたちまで、真剣な顔で俺を見ている。誰も賛成しているわけではない。禁忌が本当に破られないか、見届けようとしているのだ。
エルヴィラが目を細める。
「では、どこでなら?」
「外だ」
ドルグは、俺ではなくエルヴィラを見た。
「集落の外なら、ワシの目の届く範囲で、例外を認めよう」
俺はドルグを見た。彼は、俺の方を見なかった。禁忌を守りながら、俺に逃げ道を作ってくれている。
「……分かりました」
結局、集落の外にある小さな空き地へ移動することになった。ついてきたのは、勇者一行とドルグだけではない。
「ヒゲノスケ、本当に剃るの?」
子どもたちの声が聞こえる。いつの間にか、集落のドワーフたちも遠巻きについてきていた。さらに、騒ぎを聞きつけたバルマンまで、護衛を連れて姿を現している。商人は腕を組み、興味深そうにこちらを見ていた。
「……商売相手の前で、自分の髭を剃るのか」
バルマンの呟きが聞こえる。俺は内心で呻いた。
空き地の中央で、革箱を開く。浄鉄の刃が、朝の光を受けて静かに輝いた。
アリシアは息を殺し、エルヴィラは水晶を握りしめ、ドルグは腕を組んだまま動かない。子どもたちは目を丸くし、バルマンは口元に手を当てている。ドワーフたちの表情は、一様にこわばっていた。
禁忌の行為を、今から目の前でやる。その緊張が、空き地全体を覆っている。
俺は泡を手に取り、胸元まで伸びた髭に丁寧に塗っていった。左手で髭をまとめ、右手にカミソリを握る。
この世界に来てからの数週間、ずっと剃りたかった。なのに、今は大勢の人間に見られている。しかも、聖剣だと誤解されたまま。
「……行くぞ」
小さく呟いて、刃を顎へ近づける。白い泡の向こうに、刃先が迫る。あと少しで、ようやく最初の一筋を剃れる。
その寸前だった。
「……あー、ちょっといいですかねぇ」
気だるい声が、空き地の端から飛んできた。
振り返ると、法衣を着崩した女性が、あくびを噛み殺しながら歩いてくる。背は高め。プロポーションは良い。だが、全体的に気力が足りない。馬車の陰から出てきたらしい。
「セリア!」
アリシアが声を上げた。
「何してるの、今ごろ! 見張りを頼んだでしょう!」
「してましたよ。馬車の上で」
セリアは、ぱたりと手を振った。
「で、報告なんですけど。東の峠に、黒くてウジャウジャした連中がいます。たぶん魔王軍です」
空気が一瞬で変わった。
「敵襲!?」
アリシアが剣を抜く。
「やっぱり来たわね……!」
エルヴィラも水晶を掲げた。
「光の柱に反応したのか。予想より早い」
セリアは、俺の泡だらけの髭をちらりと見て、小さく息を吐いた。
「はぁ……忙しいところ悪いんですけど。とりあえず、戦いになりますね」
「いや、今まさに忙しいところだったんですが!」
俺の抗議は、誰にも届かなかった。
「聖剣の力が必要です!」
アリシアが俺の腕を掴む。
「剣聖様、どうかお力を!」
「いや、まだ一本も剃ってないんですが!」
「今こそ真価を示すときです!」
エルヴィラも続ける。
「神剃りの力を、魔王の手先に!」
「髭剃りの力です! 髭剃りの!」
ドルグが舌打ちをした。
「チッ……タイミングが最悪だ」
俺は刃を持ったまま固まった。泡は顎で固まり始めている。このままでは、ただの泡髭だ。
「せめて、一筋だけでも……!」
俺は必死に刃を動かそうとした。だが、次の瞬間、別の声が飛んできた。
「タカハシ! 荷車を出せ! 怪我人が出たら運ぶ!」
ガロンの怒鳴り声だ。集落全体が、戦闘準備に入っている。子どもたちは大人に抱えられ、後方へ下がらされていた。バルマンは、商会の荷物を守ろうと走り回っている。
「一本でいいから……!」
俺の訴えは、誰にも届かなかった。
アリシアが、俺の腕を引く。
「剣聖様、行きましょう! 聖剣は今、世界のために使われるべきです!」
「世界より先に、俺の顎をなんとかしてくれ!」
セリアが、ぽつりと呟いた。
「飯、作れる人? いるといいんですけど」
「今それ!?」
結局、刃は肌に触れることなく、革箱へ戻された。泡だらけの髭を拭う暇もない。
ドルグが短く言った。
「行け。世界を救うついでに、ちゃんと剃ってこい」
「ついでじゃありません!」
だが、もう選択の余地はなかった。魔王軍の先遣隊は、確実に近づいている。集落を守るためにも、勇者一行に同行するしかない。
俺は泡の固まりかけた髭を片手で押さえながら、革箱を抱きしめた。中で、浄鉄の刃が小さく光っている。聖剣と誤解されたカミソリ。剃るはずだった髭は、まだ胸元まで残ったままだ。泡は風に当たり、少しずつ乾いていく。
「……最悪のスタートだ」
俺は呟き、アリシアたちに続いた。後ろで、ドルグが小さく言った気がした。
「生きて戻れ。その髭ごとな」
俺は振り返らずに、手を挙げた。泡のついたままの、情けない手で。




