第八話 一度きりの鉄は、一度きりの願いに使え
その翌朝。
俺は、いつもより少し早く起きた。理由は分かっている。寝る前に見つけた、新しい髭油と、研がれた失敗作のナイフだ。
使わなくてもいい。髭がどうなろうと、別に構わない。そう思っていたのに、目が覚めたら、手はもう革箱を開けていた。
「違うからな」
誰もいない寝室で、俺は言い訳する。
「これは営業として必要な身だしなみだ。髭が好きになったわけじゃない」
髭油を一滴、指先に取り髭へなじませる。櫛を通すともつれがほどけ、茶色の毛が一方向へ流れていく。右側の跳ねた毛先を、失敗作のナイフでほんの少し整える。
す、と刃が通る。
「……くそ」
整うと、やはり気分がいい。
前世で電動シェーバーを当て、カミソリを肌の上で滑らせたあとに得ていた感覚。
今は櫛と油と、失敗作の刃で似たような満足感を得てしまっている。完全に負けた気分だった。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、ドルグは珍しく俺を工房へ呼んだ。
「タカハシ。こっちへ来い」
「はい」
工房の奥の普段は鍵のかかった棚の前に、ドルグは立っていた。
そこには、武器や工具とは別に、鉄扉で閉じられた小さな保管庫がある。俺が覗き込もうとすると、いつも「触るな」と追い払われてきた場所だ。
ドルグは首から下げた鍵を取り出す。
がちゃり……
重い音とともに、扉が開いた。中には、布に包まれた細長い箱が一つだけあった。
「何ですか、それ」
「……浄鉄だ」
ドルグの声は、いつもより低かった。箱が開かれると中には、白銀色の金属片が一本だけ納められていた。鉄に見える。けれど、鉄とは思えないほど澄んだ光をしていた。
窓から差す朝日を受けて、金属の表面が淡く輝く。内側に光を閉じ込めているようだった。
「昔、山の奥で掘り当てた。ワシの師匠は“神代の炉から零れた鉄だ”と言っとった」
「神代の……」
「本当かどうかは知らん。ただ、混じり気がない。熱すりゃよく伸びる。薄く打っても折れにくい。刃にすりゃ、とんでもなくよく切れる」
ドルグは浄鉄を見つめた。
「だが、使えるのは一度きりだ」
「一度きり?」
「打ち直しが利かん。失敗しても戻せん。折っても溶かしても、二度と同じ鉄にはならん。だから何十年も、使わずに置いてきた」
俺は息を呑んだ。
薄く打てる。折れにくい。よく切れる。俺の欲しいカミソリに、これ以上ない素材だった。
そのとき、ドルグは俺の腰に下げていた革箱を指した。
「出せ」
「何を……ですか?」
「失敗作を」
言われるまま、俺は細身のナイフを取り出した。ドルグは受け取ると、光へかざした。
「これは、ワシが若い頃に打った」
「若い頃?」
「刃を薄くしすぎた。戦斧には使えん。剣にすれば、受けた一撃で曲がる。儀式用にするには、柄が無骨すぎる」
俺にとっては鋭すぎるほどの刃でも、ドルグにとっては中途半端な失敗作だったのだ。
「捨てなかったんですね」
「捨てられんかった。切れ味だけは、悪くなかったからな」
ドルグはナイフを俺へ返す。
「お前は、あれを顎へ当てなかった」
「はい。怖かったので」
「それだけか」
俺は少し考えた。
「……剃髭刑の話を聞いたばかりでした。もし誰かに見つかったらって思ったら、無理でした」
「だろうな」
「でも、これで髭を整えるようになって……その、刃物を顔に近づけることは、前ほど怖くなくなりました」
「ほう」
「俺にとっては、最初の一本なんです」
ドルグは、何も言わなかった。ただ一度だけ、小さくうなずいた。そして、浄鉄の箱を俺の前へ置いた。
「お前が最初にここへ来たときから、欲しがっとった刃……」
心臓が跳ねた。
「カミソリ……だったか。それを打つ」
言葉が、工房の空気を震わせた。欲しかった。ずっと欲しかった。
そのために、集落へ来て、ドルグの家へ転がり込み、家政夫になって、ピーラーを作り、営業をしてきた。
ここで「はい」と言えばいい。なのに、目の前の浄鉄があまりにも白く光っていて、喉が乾いた。
「ただし」
ドルグが言った。
「浄鉄は、一度きりしか使えない」
彼は浄鉄へ手を伸ばしたが、触れはしない。
「何に使うか。俺の前で言葉にしろ。刃は、使い手の覚悟を映す。半端な理由で、浄鉄はまともに打てねぇ」
「……カミソリに」
「違う」
即答だった。ドルグの目は厳しい。怒っているわけではない。ただ、逃がす気がない。
「道具の名前じゃねぇ。何のために使う」
「それは……」
口が動かない。この集落では、髭を剃ることは刑罰だ。髭は大人の証で、男の魂で、一族の誇りだ。
俺はこれまで、誰にもきちんと本当の目的を言っていない。
いや、これまで二度ドルグに言おうとした。「聞かなかったことにしといてやる」と、初対面で切り捨てられた。「それ以上言うな」と、髭を整えたあの日にも止められた。二度とも、最後まで言わせてもらえなかった。
以来、ずっとそのままにしてきた。
はっきり言葉にしなくても、なんとなく察されている気はしていた。だが、察されていることと、自分の口で言うことは、まるで違う。
薄い刃が欲しい。生活道具の研究をしたい。便利なものを作りたい。全部、嘘ではない。でも、本当でもない。
「料理用の、細かい作業に使う刃を」
「違う」
「……毛並みを整えるための」
「違う」
ドルグは、一歩も引かなかった。
「お前は、何を切りたい」
工房が静かだった。炉の火も、今は落としてある。外から聞こえる鍛冶の音が、やけに遠い。
俺の指が、自分の髭へ触れる。整えたばかりの髭。油がなじみ、毛流れが揃っている。
最初は嫌だった。今だって、邪魔だと思うことはある。でも最近は毎朝、形を確認している。客に褒められれば、礼を言ってしまう。髭の手入れを怠ると、なぜか落ち着かない。
だから余計に、言えなかった。「剃りたい」と言うのが、以前より少し怖くなっていた。
「……俺は」
声が震えた。
ドルグは待っている。ドワーフの誇りを踏みにじるような願いだ。ここで言えば、怒られるかもしれない。追い出されるかもしれない。
それでも……
「髭を、剃りたい」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
「この髭が嫌いなんです。立派だって言われても、誇りだって言われても。前の世界では、毎朝髭を剃っていました」
声が、少しずつ大きくなる。
「朝、鏡の前に立って。顔を洗って。泡をつけて。刃を当てて。顎を触って、ザラつきがなくなったことを確かめる」
狭い洗面台。寝ぼけた顔。剃り終えたあとの肌の冷たさ。商談へ向かう前、少しだけ背筋が伸びる感覚。
「それが、俺にとっての身だしなみでした。誰かに会う前に、自分を整えるための……大事な時間だったんです」
俺は髭を握った。
「一度でいい。もう一度、自分の手で髭を剃りたい」
沈黙。
言い終えてから、急に恥ずかしくなった。何を熱弁しているんだ、俺は。
神代の鉄を使って、髭を剃りたいだけだ。ドルグは長い白髭を撫でていた。
「……馬鹿者」
「はい」
「髭を剃るために、神代の鉄を使う馬鹿があるか」
「俺も、そう思います」
「ワシなら絶対に使わん」
「でしょうね」
「髭は剃らん」
「はい」
ドルグは少し目を細めた。
「だがな」
彼は浄鉄を包む布を、そっと開いた。
「髭を剃るためだけに、ここまで働いた馬鹿も、お前だけだ」
俺は顔を上げた。
「嘘をついて、欲しい刃を手に入れることもできたはずだ。だが、お前は言った」
ドルグは白銀の鉄を手に取る。
「一度きりの鉄は、一度きりの願いに使え」
その言葉とともに、浄鉄が淡く光った気がした。
「明日から打つ。形はお前が決めろ。刃の角度も、柄の重さも、使い方もだ」
「……はい」
喉が詰まって、うまく声が出ない。
「ただし」
ドルグが指を立てる。
「ワシは髭を剃るのを認めたわけじゃねぇ。お前が自分の願いに嘘をつかなかったことを認めただけだ」
「それで十分です」
「あと、失敗したら二度と作らん」
「絶対に失敗しません」
「打つのはワシだ」
「ですよね」
ドルグは鼻を鳴らし、浄鉄の箱を閉じた。そのとき、工房の入口から聞き慣れた大声が響いた。
「ドルグの旦那ー! ピーラー追加で十本頼む!」
ガロンだった。ドルグの眉間に深いしわが寄る。
「……今は大事な話をしとる」
「俺も大事な注文だ!」
「帰れ!」
「タカハシー! うちの女房が、今日中に欲しいって言ってるぞー!」
「今日中は無理です!」
現実は、まったく待ってくれない。ドルグは大きくため息を吐き、浄鉄の箱を俺へ押しつけた。
「しまっとけ。なくすな」
「はい!」
俺は箱を、両手で受け取った。重くはない。なのに、ずしりと重かった。
明日。
ついに俺のためのカミソリ作りが始まる。異世界に転生してから、ずっと遠回りしてきた。
ピーラー。営業。家政夫。髭油。髭櫛。
そして、失敗作のナイフ。
全部を経て、ようやく手が届く。
俺は箱を胸に抱きしめ、誰にも聞こえないくらい小さな声でつぶやいた。
「……絶対に、剃ってやる」
その瞬間。
箱の中で、浄鉄がほんの少しだけ白く光った……気がした。




