第七話 失敗作は、髭を整える
バルマン商会との契約から、十日が過ぎた。
ドルグ工房は、かつてないほど忙しかった。炉の火は朝から晩まで消えず、金床を叩く音は岩山の奥まで響いている。
俺は注文の整理、材料の発注、納期の調整、納品の確認に追われていた。
朝は朝食を作る。昼は昼食の用意と掃除、洗濯だ。夕方は市場で納品と追加注文の相談。夜は帳簿をつけ、翌日の仕込みをする。前世の月末より忙しい。
「タカハシ! 商会向け二十本、刃の仕上げが終わったぞ!」
「了解です! 刻印を確認して、夕方までに梱包します!」
「タカハシさん! ピーラーの刃が欠けたんだけど……」
「交換品を出します。使い方も確認しますから、少し待っててください!」
「タカハシ! 晩飯はまだか!」
「ドルグさん、鍛冶に集中してください!」
忙しい。ひたすら忙しい。だが、悪くはなかった。
料理屋は仕込みが早くなったと喜び、子どもの多い家の母親は「夕飯の支度が楽になった」と笑う。
バルマン商会からは、早くも次の注文について相談が来ていた。
自分の提案した道具が、誰かの生活を少しだけ変えている。
前世で営業をしていた頃も、その瞬間が好きだった。
契約書に判をもらったときより、導入した商品を相手が便利に使ってくれたときのほうが、ずっと嬉しかった。
「……悪くないんだけどな」
夜。
帳簿を閉じた俺は、椅子の背にもたれた。手元には冷めかけた薬草茶。机の向こうでは、夕食を食べた直後のドルグが、椅子に座ったまま寝落ちしている。そして俺の手は、無意識に顎へ伸びていた。
もふ。
もふもふ。
……伸びてる。
当たり前だ。一度も剃っていないのだから。俺は小さく息を吐き、机の上の革箱を開けた。髭油を一滴、指先に取る。毛流れを整え、櫛を通す。もつれがほどけていく感触は、悪くない。
……悪くないのが、腹立たしい。
櫛の先が引っかかった。
「痛っ」
無理に引いたせいで、髭が数本抜けた。掌に残った、太く長い茶色の毛。前世なら、何とも思わなかったはずだ。俺はしばらく、その毛を見つめていた。
……それから、無言で捨てた。
髭は邪魔だ。剃りたい。ずっと、そう思ってきた。
なのに手入れをして、褒められて、役にも立つと知った途端、髭をただの邪魔者として扱えなくなっている。
そんな自分が、一番気持ち悪い。
◇ ◇ ◇
翌朝。
市場へ向かう途中、俺は子どもたちに囲まれた。
「タカハシ兄ちゃん!」
「ピーラーの人だ!」
「髭の人だ!」
「髭の人ではない」
「ヒゲノスケだ!」
「……そのあだ名、まだ生きてたのか」
「バルマンさんが、ヒゲノスケ、ヒゲノスケって言ってるよ」
「あの人まで……」
「ねえ、ヒゲノスケ、今日の髭、変ー!」
ぴたり、と足が止まる。
「……変?」
「右だけ、ぼわってしてる!」
「こっちはくるんってしてるのに!」
「髭の形、変なのやだー!」
子どもは容赦がない。自分の髭へ触れる。言われてみれば、昨夜、櫛が引っかかった辺りの毛流れが乱れていた。片側だけが跳ね、全体の輪郭もわずかに崩れている。
前世なら、剃れば終わる程度の乱れだ。しかし今は剃れない。整えるしかない。
「……ちょっと待ってろ」
俺は踵を返し、ドルグ宅へ戻った。
◇ ◇ ◇
「ドルグさん!」
「なんだ、朝から」
「髭を整える道具を貸してください!」
朝食のスープを飲んでいたドルグが、ぴたりと止まった。
「……何?」
「櫛とか、髭ばさみとか。今日、商会の人と会うんです。このままでは工房の販売担当として信用に関わります」
ドルグは俺の顔を見る。
正確には、右側が少し跳ねた髭を見る。
「……ほう」
「ほう、じゃないです」
「髭を整える気になったか」
「仕事だから……整えるんです!」
言った直後、少し悔しくなった。
ドルグは、口元をわずかに歪めた。
「棚の上から二段目。黒い革箱だ」
「ありがとうございます!」
俺は棚を探り、黒い革箱を引っ張り出した。中には、髭用の櫛、細いはさみ、香りの強い油。そして、一本の細身のナイフが入っていた。
見覚えがある。
初めてドルグの工房で見つけた、あの失敗作だ。武器には薄すぎる。儀式用には不格好すぎる。
だが、俺には初めて「髭を剃れるかもしれない」と思わせた刃だった。あの日、俺は本気で、この刃を手に入れようとした。
けれど剃髭刑の話を聞いた直後だった。
誰かに見られればどうなるか分からない。何より、見れば分かる。あの刃は鋭いが、髭を剃るには少し厚い。下手に顎へ当てれば、髭より先に肌が切れる。
結局、剃ることはできなかった。そのナイフをドルグがどういう意図か、革箱へ入れてくれていたようだ。
「それを使うのか」
背後から、ドルグの声がした。
「……飛び出た毛を切るのに。刃がいいので」
「失敗作だ」
「俺にとっては、最初の一本です」
言うと、ドルグは少しだけ黙った。
「ふん」
それだけだった。
俺は金属板を鏡代わりにして座る。櫛を通し、油を少量、指先に取る。毛流れを揃え跳ねた毛先だけを、失敗作のナイフで慎重に落とした。
す、と。
ほんの数本が、床へ落ちる。前世のカミソリとは、まるで違う。それでも刃を自分の顔の近くで扱い、整えるという行為に、心の奥が落ち着いていくのを感じた。
「……悪くない」
金属板に映るのは、髭を整えたドワーフだった。モジャモジャは残っている。むしろ整えたせいで、立派に見えている。なのに少しだけ、気分がいい。前世で髭を剃り終えたあと、顎を撫でたときの感覚に似ていた。
ドルグが、背後からぼそりと言った。
「刃物は、切るためだけにあるんじゃねぇ」
「……整えるためにもある」
「そうだ」
「でも俺は、まだ剃りた……」
「それ以上言うな!」
ドルグが静止の言葉をかぶせてきた。
「わかっとる」
その一言に、少しだけ胸が詰まった。
結局その日、商会のバルマンは俺の顔を見るなり言った。
「タカハシ。髭が立派になったな」
「ありがとうございます」
反射でそう答えてしまった。営業スマイルだった。
たぶん。
……たぶん、だ。
◇ ◇ ◇
夜。
俺は、注文管理用の薄い木板に、新しい項目を書き加えていた。
ピーラーの注文数。材料費。納期。商会への出荷予定。
そして、その下に小さく。
髭油:残り半分。補充要。
髭櫛:朝晩使用。
右側の毛流れ:要観察。
失敗作ナイフ:刃こぼれなし。
書いてから、俺は手を止めた。
「……何を書いてるんだ、俺は」
前世では、替え刃の交換時期をパソコンの表計算で記録していた。
異世界では、髭油の残量と、髭を整えるナイフの状態を木板に記録している。
髭を剃るための人生だったはずが、髭を育てる男みたいになっている。
俺は慌てて木板を裏返した。
「違うからな」
誰に向けるでもなく言い訳する。
「カミソリを手に入れたら、俺は剃る。絶対に剃る」
その決意に、嘘はない。
……はずだった。
机の端には、ドルグが置いていった新しい髭油の小瓶と、丁寧に研がれた失敗作のナイフがあった。




