第三話 鍛冶は得意でも家事は苦手
夜明け前。
前世なら、まだ電動シェーバーの音すら鳴っていない時間だった。
俺はドルグの工房兼自宅の前に立ち、深く息を吸っていた。
「……家政夫としての初出勤、か」
異世界に転生して三日目。
俺はまだ一度も髭を剃れていない。
顎から胸元まで広がるモジャモジャは、今日も元気だった。いや、元気でなくていい。むしろ静かに抜け落ちてほしい。
ここへ来た目的は、あの薄く、繊細で、恐ろしくよく切れそうなナイフだ。
ドルグのそばで働けば、いつかあれを譲ってもらえるかもしれない。あるいは、同じものを打つ方法を教えてもらえるかもしれない。
そのためなら、掃除も洗濯も料理もやる。
前世でも一人暮らしは長かった。
営業職は帰宅が遅くなりがちだったが、部屋と身なりくらいは整えていた。朝にカミソリを洗浄し、夜にワイシャツを干す。生活を回す段取りには、それなりに自信がある。
……少なくとも、この時点では。
「ドルグさん。タカハシです。来ましたー」
返事はない。
もう一度、少し大きな声で呼ぶ。
「ドルグさん? 失礼しまーす」
扉を押すと、鍵はかかっていなかった。
ぎぃ、と嫌な音を立てて開いた扉の向こうで、俺は固まった。
「……なんだ、これ」
床に転がる金槌。壁際に積み上がった金属片。
洗っていない皿。いつのものか分からない鍋。
脱ぎ捨てられた服の山。
そして、椅子の背に引っかけられた白い髭用のブラシ。
いや、髭ブラシはいい。髭を大切にする文化なのだから理解はできる。
問題は、その隣にある、明らかに数日分たまった食器だ。
「工房が散らかってるとかじゃない。生活が……崩壊してる」
「うるせぇな」
奥から、低く不機嫌な声がした。
薄暗い部屋の隅、火の消えた暖炉の近くで、ドルグが毛布にくるまっていた。
寝起きらしい。白い髭があちこちに跳ねている。ドワーフ的には寝癖なのか、それとも髭癖なのか。
「来るのが早すぎる」
「夜明け前に来いって言ったの、ドルグさんですよ」
「……そうだったか」
どうやら、この人は鍛冶以外の記憶領域がかなり少ないらしい。
ドルグはのそりと起き上がり、俺を手招きした。
「まずは朝飯だ。腹が減っては鉄が打てん」
「分かりました。食材はどこに」
「知らん」
「はい?」
「昨日の朝にはあった」
「昨日の朝から、何も食べてないんですか?」
「酒は飲んだ」
「それは食事ではありません」
前世の俺なら、商談相手であっても少し引いていただろう。
だが、今の俺は彼の家政夫である。俺は大きく息を吐き、室内を見回した。
食材棚らしき場所には、干し肉、硬いパン、根菜、豆、塩。冷蔵庫なんて当然ないが、幸い、腐っているようなものはなさそうだ。
「……できます」
「おう」
「ただし、まず食器を洗います。あと床も片づけます。火も起こします」
「飯だけ作れんのか」
「この状態で作ったら、お腹を壊します」
ドルグは不服そうな顔をしたが、反論はしなかった。
◇ ◇ ◇
二時間後。
ドルグは、きれいになった木のテーブルに座り、湯気の立つスープを見つめていた。
干し肉を細かく刻み、豆と根菜を煮込んだだけの簡単なスープ。
固いパンは薄く切って焼き、少しだけ塩と油を塗った。
凝った料理ではない。だが、少なくとも「鍋の底から謎の金属片が出てくる食事」ではない。
「……食っていいのか」
「どうぞ。毒見役が必要なら俺が先に食べますけど」
「いらん」
ドルグはスプーンを手に取り、ひと口すすった。
もぐもぐ、と咀嚼する。
その顔が、ほんの少しだけ動いた。
「……温かい」
「スープですからね」
「いや。いつもは冷えた干し肉と、ぬるい酒だった」
「健康面が心配すぎる」
もうひと口。
もうひと口。
やがてドルグは、何も言わずにスープを食べ始めた。
無言で完食し、焼いたパンまできれいに食べ切る。
その様子を見て、俺は少しだけ安心した。
営業でも料理でも、相手が本当に求めているものを見つけられれば、話は早い。
ドルグが欲しかったのは、たぶん豪華な料理じゃない。毎日まともに食べられる生活だったのだ。
「……悪くない」
食べ終えたドルグが、ぶっきらぼうに言った。
「ありがとうございます」
「明日も作れ」
「それが仕事ですから」
「あと、洗濯もな」
「はい」
「風呂の湯も」
「はい」
「髭のオイルも切れてる」
「それは自分で買ってください」
「弟子のくせに」
「家政夫です」
はっきり訂正すると、ドルグは不満げに髭を撫でた。その指の動きが、妙に丁寧だった。
髭だけは毎日きちんと手入れしているらしい。生活は荒れているのに、髭は整っている。
この世界の優先順位、やはりおかしい。
◇ ◇ ◇
昼前、ようやく家の片づけがひと段落した。
ドルグは工房の奥で金属を打っている。
カン、カン、カン、と規則正しい音が、胸の奥まで響いてくる。
俺は台所で、夕食の下ごしらえを始めていた。
今日の主役は、土から掘り出したばかりらしい大きな芋だ。
見た目はじゃがいもに近いが、表皮が分厚く、妙に硬い。
「……皮むきが面倒だな」
包丁を手に、慎重に皮を落としていく。
ザク。
ザク。
ザク。
分厚い皮を削るたび、食べられる部分まで一緒に削れていく。
一個、二個ならいい。だが、ドルグの食事は一日一度きりではない。毎食このペースで剥くなら、十個、二十個は必要になる。
「この作業、無駄が多すぎる……」
営業の仕事では、移動、資料、連絡、見積もり。
小さな手間を削るだけで、一日が変わることを知っていた。
料理だって同じだ。
必要なのは、皮だけを薄く、一定に削る道具。
握りやすい柄。
食材の表面に沿う刃。
刃の両側に支えをつければ、深く入りすぎず、均一な厚みで剥けるのではないか。
俺は木炭を取り、工房の隅にあった木の端材に図を描いた。
「……こうして、横向きに刃を固定して……いや、持ち手はこの形のほうがいいか」
前世で使っていたピーラーの形を思い出す。
Y字型。横向きの刃。軽く引くだけで、野菜の皮が薄く長く剥けていく、あの便利な道具。
ふと、手が止まった。
横向きの薄い刃。
皮だけを削ぐための、繊細な切れ味。
髭を剃るのにも、近い形ではないだろうか。
「……いや、まずはピーラーだ」
今、カミソリの話を出したらドルグに警戒される。
あの人もドワーフだ。髭を剃るための刃物なんて聞けば、間違いなく変な顔をする。
だが、料理のための便利な刃物なら。
生活を整える道具としてなら。
そして、その先には。
「ドルグさん」
工房の音が止まった。
「なんだ」
「少し、変わった刃物を作ってみませんか」
「剣か」
「違います」
「斧か」
「違います」
「ナイフか」
「近いですけど、もっと……芋用です」
「……芋?」
工房の奥から、怪訝そうな視線が飛んできた。
俺は描いた図を手に、にやりと笑った。
髭を剃るための道は遠い。
だが、刃物を作ってもらうための最初の商談は、案外うまくいくかもしれない。
その日、俺は異世界で初めて、カミソリではなくピーラーの企画書を差し出した。




