第二十七話(エピローグ)「顎はツルツルでも手つきだけが俺のものだ」
工房の戸を開けるとドルグは炉の前にいた。こちらに背を向けたまま火の番をしている。俺の足音が聞こえているはずなのに振り返らない。
「……ドルグさん。帰りました」
「知っとる」
それだけだった。
一拍、間。
ドルグがようやく振り返った。俺の顔をじっと見る。……俺のどこを見ているのか。分かっていた。顎だ。顎の髭のあった場所。
「……ふぅむ」
炉の火の光でドルグの顔に浮かんでいる表情が読み取れない。驚いているのか。悲しんでいるのか。何も言わない。
俺は黙って向かいの腰掛けに座った。しばらく二人とも何も言わなかった。
「……髭を、やられたか」
ドルグが砕けた声で言った。
「はい。やられた、というよりは……まあ、なくはなったんです。永久に」
「ふうむ」
ドルグはそれだけ言うと立ち上がった。作業場の奥へ引っ込んで何かをゴソゴソとやり始める。俺はその背中を見ながら床を見ていた。……無理もない。ドルグは俺のために浄鉄まで使ってあのカミソリを打ってくれたのに。俺は一度も髭を剃らずに灰だけ抱えて帰ってきた。言い訳の言葉も浮かばなかった。
しばらくして。ドルグが戻ってきた。手に何かを持っている。
「……これ、持っておけ」
差し出されたのは磨かれた金属板だった。手のひらより少し大きい。粒ひとつない、滑らかな表面。……ドワーフの集落では、金属を磨いて鏡代わりにする。だが、俺が見てきた集落の金属板はもっと曇っていた。これは違う。丹念に何度も磨かれた跡がある。
「磨いとった。……昔、ワシも使っとったもんじゃ。もう要らん」
「……」
「髭がねえと自分の顔が分からんだろ。これで見ろ」
「……ドルグさん」
俺はその鏡を受け取った。手に馴染む。磨かれた表面に俺の顔が映る。つるりとした顎。……俺の今の顔。
「ありがとうございます。……大事にします」
ドルグは、ふん、と鼻を鳴らして背を向けた。炉の前に戻っていく。その背中に俺は言った。
「ドルグさん。……次に打っていただきたいのは刃物じゃないんです。もっと平和なやつでお願いします」
「何を作る気だ」
「まあ、見ててください」
……とそのとき、ドルグが足を止めた。振り返りもせずに炉の火を見つめたまま、ぽつり、と。
「……ワシは見ておったぞ。お前の手つき。飯を炊く手つきも、髭を梳く手つきも。……顔は変わった。だが、手つきは残ってるな」
俺は何も言えなかった。ドルグはそれだけ言うと、また炉の前に座り直した。……この親父はいつもそうだ。必要なことだけを余計な飾りなしに言う。
◇◇◇
翌朝。目が覚める。天井がある。木の梁だ。ドルグの工房兼自宅の奥の一室。岩山をくり抜いた洞窟をいちばん奥まで歩いたところにある俺の部屋。……今の俺の家だ。
昨夜、ドルグさんにもらった金属板を窓辺に立てかけてある。磨かれた鏡。俺はその前に座った。
そこには、髭のない顔がいた。
胸元まで届く、茶色いモジャモジャはない。ごつごつした頬とつるりとした顎。……前世の俺の顔にちょっと近い。近い気がするのに……なんだか、妙に落ち着かない。
手が動いていた。
水で頬を濡らして。泡立てて。顎を。頬を。毛穴のひとつひとつを確かめるように、指先でなぞっていく。……これは、剃る動作だ。前世の毎朝の俺のルーティン。髭を丁寧にきれいに落としていく動作。
……だが、もう剃るものはない。
なのに手は止まらない。指先はなじみの手順をなぞり続けている。長い間、毎朝やってきた習慣が……身体が、覚えている。
俺は鏡に映る顔を見ながら、ふと、笑った。
(……ドルグの言う通りだ。『手つきは残ってる』)
この世界に来た朝、水たまりに映ったのは、知らないオッサンの顔だった。びっくりして逃げ出したくなるような顔だった。……今、ここに映っているのは俺の顔だ。つるりとした、俺の顔。どこにも逃げる必要はない。
髭はもうない。だが、この手つきは俺のものだ。この世界に来て、俺が自分で身につけた朝の手つきだ。それは、髭があろうがなかろうが、俺の一部として残っている。
俺は手を止めた。水滴を拭って鏡の中の自分を見る。
「……生えてこないなら、生えてこないでいい」
俺は、呟いた。
「俺の朝は、俺のものだ」
◇◇◇
ところで、ドワーフの髭は時空魔法でも消えない、魂に刻まれたものだと魔王は言っていた。転生する前の自分に戻ろうと何度時を巻き戻しても、髭だけはいつもその顔にあった。……それがあの刃とその加護によってようやく消えた。完全に、永久に。
だから、俺の髭ももう生えてこない。
それは、あの日の朝から少しずつ分かってきていた。だが不思議と絶望はなかった。俺はこのつるつるの顎でもう数週間生きている。飯を作って。交渉をして。ピーラーの在庫を数えて。爪切りの試作の図面を引いて。……ちゃんと、俺の朝は回っている。
◇◇◇
数日後、荷物と手紙が届いた。まず、荷物のほうから開けると、枕だった。ガサガサした鳥の羽っぽいものがたっぷり入った枕。添えられた紙にはこう書いてある。
『髭毛布の代わりになるもの、作ってくれませんかね。……というか、私の枕問題、本気で深刻なんです。タカハシくんが髭を失ってから、私はまともな睡眠を取れていない気がします。……責任、取ってくださいね』
セリアからだった。
「髭毛布って認めてるんか、俺の髭は。……いや、もう髭はないんだった。『責任取ってくださいね』、って。お前の枕問題の責任は俺に取れるのか」
とはいえ、彼女の字は、いつもより丁寧だった。「しんどい」としか書けない神官が、これだけの長文を書くのは初めてなんじゃないか。……まあ、一応、考えてやるか。枕の代替品。いいものがある。鳥の羽毛は枕にするには硬すぎる。羊の毛をよく洗って乾かせば、もう少し柔らかく調整できるだろう。
二通目は、分厚い羊皮紙だった。
『髭のないタカハシさんも、これはこれで、研究対象として大変興味深い。特に、顎の骨格のラインが明瞭になった点は、学術的価値が高い。ぜひ次にお会いした際は計測をさせてください。併せて、皮膚の状態も記録に残したい。……これは学術です。変な目で見ないでください』
エルヴィラだった。
「……計測、ね。お前の研究対象、俺の顔だぞ。……まあ、こいつは、これでいいのかもしれない。生きている限り研究対象が見つかる。それがこいつの幸せだ」
三通目。……これは手紙ではなく、走り書きの紙切れだった。
『剣聖様。私は今日も元気です。村でお肉を食べています。魔王を倒したので世界は平和です。もっと平和だともっとお肉が食べられる気がします。どうやったら世界はもっと平和になりますか。あと剣聖様のお肉料理は、いつ食べられますか』
『……それにしても、平和って、思ったより静かですね。戦う相手がいなくなると、朝から何をしていいか分からなくなることがあります。剣聖様は、どうしていますか』
アリシアだった。
「……返事に困るな。お前肉の話しかしてねえな。……世界は平和になっちゃったからな。元気を持て余した勇者が村の肉を食い尽くしているんだろうな。……あいつもあれで、自分の平和を探してるんだろう。たぶん」
そして、一通だけ。装丁のない質素な紙の手紙が混ざっていた。開くと達筆すぎない太い文字でこう書いてある。
『髭は生えぬ。お陰で毎朝が快適だ。……が、どうも顎を撫でる癖が抜けぬ。癖というものは時を巻き戻しても消えぬものらしい。まったく、しぶとい呪いだ。……酒場の約束、忘れるな。つるつる同士、酌み交わそうぞ。元・一号より、元二号へ』
魔王からだった。
「……アイツ、顎を撫でてるんじゃねえか。髭がないのに」
俺は思わず笑った。同じツルツルで、アイツは呪いから解放されて。俺は呪いと一緒に大切なものを失って。……それでもまあ、この顎で次はどんな朝を作るか。それを考えるのは、うん、悪くない。
◇◇◇
俺は手紙を机に置いて、作業場へ向かった。ドルグが炉の前に座っている。いつも通りの背中だ。
「ドルグさん。企画書、持ってきました」
「何を作る気だ、今度は」
「これはですね。……髭じゃなくて、爪を整えるための道具なんです」
「……それは刃物だろうが」
「平和な刃物です」
「何が平和だ。……まあ、いい。炉は火が入ってる。試作なら今日から打てるぞ」
そのとき、頭の奥でかつて聞いたあの事務的な声がよぎった。
『……チート能力は、ありません』
あの声の正体を、魔王は魔王城で教えてくれた。俺の転生の朝に『チート能力はありません』と告げたあの声。それは、魔王の転生の朝にも、同じ調子で響いていたという。……だがあの神は、一度しかしゃべらない。魔王はそう言っていた。つまり俺の転生は後始末だった。それはもう分かっている。怒りももうない。……ただあれ以来、あの声は一度も鳴らない。神は俺に何も言わない。部下も連絡をくれない。……事務処理が忙しいんだろう。一号は片付いたから、もう俺の出番はない。……まあ、それでいい。俺は俺の朝を、こうして作っていくんだから。
俺は、窓辺の金属板の前で、一度自分の顔を確認した。つるりとした顎。
……俺の顔だ。
「ドルグさん。今日の昼飯、何がいいですか」
「……なんでもいい。腹が減るもんを食わせろ」
「じゃあ、芋の皮を剥くんで、ピーラー使いますね」
「……ピーラーは、ワシが打ったもんだぞ」
「ええ。世界で一番、芋の皮を剥くのに適した刃です」
炉の火が爆ぜた。作業場に鉄の匂いが満ちていく。朝の光が洞窟の入り口から差し込んでくる。
……顎は、ツルツルだ。手つきだけが、ちゃんと、俺のものだ。
あと一話で終わります。最後までお付き合い、よろしくお願いします。




