第二十六話「同じツルツルでも、意味はまるで違った件」
「寄越せ、その刃。俺が終わらせる」
「……っ!」
俺は叫び手を伸ばした。魔王の手がカミソリに絡みつく。引っ張る。引っ張られる。力では魔王に敵わない。カミソリは少しずつ魔王の手に傾いていく。魔王がその刃を……自分の顎へ向けた。その瞬間、俺はもう一方の手で魔王の手首を掴んでいた。
「待て! 俺の朝を……」
「……すまん。だがこれが俺の朝なんだ」
……二人の手が一振りの刃に重なったまま。
ドルグが言っていた。『刃は、使い手の覚悟を映す』と。俺の覚悟はどっちにあるんだ。剃ることか。それとも……。
……分からない。それでも、この手を離す気はなかった。魔王も、同じだった。奪おうとする力と、渡すまいとする力。二つの「執着」が、一振りの刃の上でせめぎ合っていた。さっき触れたばかりの、あの髭への手つきと同じ強さで。
そのとき。浄鉄の刃が、白く、光った。
「……えっ」
「……なに」
光は一瞬で玉座の間を満たした。神々しい光。カミソリが完成した朝に天を突いたあの光。今度は二人を……真っ白に、包み込んだ。
声が聞こえた。あの事務的な声だった。
『……加護、発動』
『対象の「執着」を確認』
『一号──髭を憎み、消し去りたいという執着』
『二号──髭を剃りたいという執着。同時に、失いたくないという迷い』
『両者、等しく髭に「執着」ありと判定』
『……よって、断つ』
「……断つ?」
……いや、声はまだ続いていた。
『対象の毛根は、完全消去された。以後、二度と生えることはない』
つるり、と。音もなく。世界の色が白から戻ってくる。俺は自分の顎に手を当てた。
……なかった。
髭がない。つるりとした顎。指先に毛の感触がひとつもない。胸元を覆っていた重みもない。あの茶色いモジャモジャの存在感が、まるで最初からなかったかのように消えていた。
「……あ」
魔王も同じだった。自分の顎を撫でている。その顔は……呪いから解放された素顔。驚いたように、何度も何度も顎を撫でている。
「……つるつるだ」
魔王が呟いた。
「俺の顎が……つるつるだ。生えてこない。……生えてこないぞ」
「え、ちょっと待て、お前、それ、まさか……」
「生えない! 生えてこないぞ!! 痛くもない! 痒くもない! 生えてくる気配がまったくない!! 前世のあの日から一度も……こんな朝はなかった!!」
魔王は絶叫した。玉座の間にあの重く低い声が響き渡る。
「神よ!! 俺は……俺は、解放された!! 髭から! 憎しみから! ああ……これが自由か! これが安らぎか! 俺はこんな朝を待っていた!! 何十年も! 前世も! 今世も! ずっと……!!」
魔王は泣いていた。いや、泣きながら笑っていた。歓喜の涙。まさにそういう顔だった。
……魔王が何十年もかけても消せなかったものを、神は事務的な一言で消し去っていった。自分の力では抗えなかったものが、他の力によってあっさり終わる。……それだけのことなのに、妙に重く感じた。
……そして。
俺も、泣いていた。
「……俺の」
声が、震えた。
「俺の、ヒ…ゲ……」
……俺の髭が、ない。
つるつるの顎。なじみのない感触。昨日までそこにあったものが、ひとつもない。雪山の雪も。湿地の虫も。セリアの重みも。ドルグの油の匂いも。……俺の異世界での顔が。俺の朝が。
……答えは、結局、俺自身が出したわけじゃなかった。剃るとも、剃らないとも、最後まで俺は決めなかった。……それでよかったのかもしれない。分からないままでも、ちゃんと、ここまで来られたんだから。
……同じツルツルでも、俺と魔王では、人生の意味がまったく違った。
◇◇◇
ふと、気づくと、握っていたカミソリの感触が軽くなっていた。
見下ろす。浄鉄の刃は、白い灰のように、崩れていた。俺の手の中に、きらきらと光る砂だけが、残っている。ドルグが俺のためだけに打った、世界でただ一本の俺のカミソリ。それは光を放った瞬間に、その役目を終えていた。
(……ドルグさん。悪ぃな。俺は、あんたの刃を、ちゃんと使い切れなかった)
俺は灰の粒を、そっと布でくるんだ。大事に帯に挟んだ。
「……おい、魔王。」
「あ? 何だ、この期に及んで」
「一つだけ聞かせろ。……本当にもう、生えてこないのか」
「……生えないぞ。俺も、お前も、もう二度と」
「……」
「生えない。……俺はこの数十年、どうしても消せなかった。時を巻き戻しても、刃を当てても、染みのように残った。魂に刻まれたものは、何をもってしても消えない。……それが、消えたんだ。戻ってくるはずがないだろう」
「……最悪だ」
「……いや、俺は最高だがな」
魔王は、自分の顎を撫でながら、笑った。心からの笑顔だった。
……というわけで、決着はついた。
魔王の時間の巻き戻しは止まった。髭が永遠に生えなくなった今、彼が『戻るべき場所』はもうどこにもない。戻る理由が消えた。それだけのことだ。時空魔法は沈黙し、歪んでいた魔素は少しずつ穏やかになり、世界の時間は、ようやく前に進み始めた。
「世界が……救われた」
アリシアが、ぽかんと口を開けたまま、言った。
「救われたんですよね? 魔王との決着がついて、時間が戻り始めて……」
「ああ。……どうやら俺たちの勝ちだ。……と言うか、俺の負けだ。はあ」
……そして、エルヴィラは。
エルヴィラだけは、膝をついていた。
言葉もなく。
その顔は——驚愕とも、感動ともつかない表情で、固まっている。
「……エルヴィラ?」
「……いえ」
彼女は、ようやく口を開いた。
その声は、わずかに震えていた。
「……あれは、本当に『神剃り』でした」
「……何が?」
「伝説です」
エルヴィラは、つるりとした俺の顎を見た。
そして、その隣にいる魔王の顔を見る。
「二人の転生者が、同じ刃によって、長年の執着から解放された」
「いや、俺は別に解放された気はしてないんですが」
「ですが、髭はありません」
「そこだけは事実ですけど」
エルヴィラは、しばらく黙っていた。
「……神の思惑など、私には分かりません」
その視線が、足元に落ちたカミソリの残骸へ向く。
「最初から、こうなるように仕組まれていたのか。それとも、ただの偶然だったのか」
「……」
「ですが」
エルヴィラは、ふっと笑った。
「伝説は、ここに誕生しました」
「『神剃り』は、実在した」
「……それだけでいいんですか?」
「ええ」
彼女は、なぜか満足そうに頷いた。
「私があなたの髭の研究に費やした時間も、無駄ではなかったということですから」
「そっちの結論に着地します?」
「当然です」
「当然なのか……」
……何だよ、その満足げな顔は。
玉座の間に、少しの沈黙が落ちた。
「剣聖様!! あなたが魔王の呪いを斬ったんですね!! 伝説の聖剣『神剃り』!! 使い手は若きドワーフ!!」
アリシアは泣きながら俺に抱きついてきた。……戦いは全部『なかったこと』にされたのに、何を勘違いしているんだ、この勇者は。いや、でも泣いてる。嬉しくて泣いてる。……世界が救われた。それは本当だ。俺の髭は消えたが。
「あーあ……」
セリアは、遠い目をしていた。
「あの見事な髭毛布が……。風合い、最高だったのに……。抱き心地、満点だったのに……。タカハシくんの髭、あれ、私の夜具として史上最高のコスパだったのに……」
「俺の髭を夜具と呼ぶな。……あと、お前、俺の髭で何人分の睡眠を賄ったんだ」
「ぐすっ。……世界は救われた。私の夜具は失われた。人生ってこういうことですよね……」
「人生で済ませるな、お前の枕問題を」
◇◇◇
魔王城を後にする。
門の前で魔王と呼ばれたが見送っていた。黒いローブ。だが、襟は立てていない。もう顎を隠す必要がないからだ。つるつるの顎。解放された顔。
「……ふむ」
魔王が言った。
「俺はこれから何をすればいいんだ。世界は救われた。髭は生えない。……この数十年、俺は憎しみと回避のためだけに生きてきた。明日からの人生の予定がひとつもない」
「……仕事を探せよ。お前、鍛冶とかできるんだろ」
「む。まあ、できないこともない。……ただし、ドワーフの社会は髭のない俺をどう扱うか」
「子ども扱いだな。酒も飲めない」
「……げっ。それは困る。俺、この世界に来てから一度も酒を飲んだことがないんだ。集落にいた頃は、剃髭刑の身で飲めなかったからな」
「……それは不憫だな。……まあ、これからは、俺もだが」
「そうだな。つるつる同士、酒場で肩を並べて飲むか」
「……悪くないな」
魔王は笑った。俺も少しだけ笑った。……同じつるつるでも。まあ、こういう使い方も悪くないのかもしれない。
「……それじゃあな、二号」
魔王が背を向けて城へ戻っていく。その背中に俺はこう投げかけた。
「なあ、魔王。一つだけ言っておいてやる」
「何だ」
「お前の髭は立派だった。……俺もそう思う。あれだけの髭を持って生まれた奴は、この世界にそういない」
……魔王は立ち止まった。振り返らないまま、しばらく黙っていた。そして静かに言った。
「……ふ。そうか。ならば俺の前世は無駄ではなかったのかもしれんな。あの髭があったからこそ、俺はこの世界に来てお前に会えた。……悪くない話だ。ありがとう、二号」
……魔王はそう言って城の中に消えていった。
逆回りだった時計塔が、音を立てて……今度は前に動き始めた。朝の光が城全体に降り注いでいる。
俺はつるつるの顎を、もう一度撫でた。冷たい風が通り抜ける。髭の重みがない分、感触が妙に頼りない。
「……まあ」
俺は呟いた。
「次に生えたら、今度はちゃんと手入れするか」
……魔王の声が、城の奥から聞こえてきた。ひどく楽しそうな声だった。
「生えないぞ〜」
「俺のヒゲ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」




