第二十五話 最後の話をしよう
「奪うまでだ」
「……待て」
俺は、反射的に、カミソリを背中に隠した。魔王の手が空を切る。二度目だ。昨日も同じことをした。
「お前も昨日と同じことを言うのか」
「言うさ。これは俺のものだ。俺がドルグに打ってもらった、俺の刃だ。お前に好きにさせるわけにはいかねえ」
「ではどうする。お前は答えを出せない。俺は終わらせたい。……このまま膠着しても、世界は救われないぞ。時空魔法の歪みは、今夜、限界を迎える。お前と話している間にも、大陸のどこかで、時間が崩れ始めている。……迷うのはお前の勝手だ。だが世界はお前の迷いを待ってはくれない」
……奥歯を噛んだ。
「剣聖様!」
そのとき、俺の背後で、アリシアが声を上げた。
「魔王はあなたの迷いを利用しています! ここは私が……全力で、叩き斬ります!」
「待て、アリシア、話を……」
「剣聖様はその刃を守っていてください!!」
言うが早いか、アリシアが剣を抜いて駆け出した。
「魔王ぉぉぉ!!世界を救う!そして剣聖様の髭も、誰にも勝手にさせない!!」
……どこまでもアホだ。だがそのアホさが、今は痛いほどありがたかった。
アリシアの剣が魔王の首筋に届く……その瞬間。
魔王が指を鳴らした。
「……退け」
世界が、揺れた。いや、世界が……『巻き戻った』。
気づくと、アリシアは駆け出した地点に立っていた。剣を構えたまま。姿勢はさっきとまったく同じ。まるであの一瞬がなかったことにされたように。
「……は? は? 何が起きた? 私、今、魔王に斬りかかって、もう届いて……」
「……時空魔法、ですね」
エルヴィラが乾いた声で言った。それだけで、痛いほど分かった。
「うわ、最悪じゃないですか……。お酒を飲んでいい気分になったのに、きゅうに酔いが冷めて全部なかったことにされるパターンですよね、これ……」
セリアが、白目を剥いて呟いた。
「……そういうことだ」
魔王が玉座の間の中央に立っていた。黒いローブをはためかせて。
「俺はこの世界の時間を何度も巻き戻してきた。転生する前に。憎まれる前に。……その技術はもはや本能だ。俺に届く攻撃は、すべて『起こらなかったこと』になる。……これは逃げではないぞ。俺がこの数十年、生き延びるために磨いてきた戦いだ」
「……なるほどな」
俺は、ゆっくりと、前に出た。アリシアたちの前に。
「だったら時間を巻き戻しても『なかったこと』にできないものを、ぶつければいいんだな」
「ほう」
「例えば……お前の『言葉』は、巻き戻せない。俺とお前の話は昨日から始まってる。それをなかったことにできるか?」
魔王は、微かに目を細めた。しばし、黙っていた。まるで、その可能性を今初めて検討するように。そして……小さく、笑った。
「……出来ぬな。お前の言う通りだ。俺は時間を戻せるが、理解したことまでは戻せん」
「なら、決着のつけ方は決まってる。時間がどうとか、世界がどうとか、その前に……お前と俺で、『答え』を決めるんだ」
「……いいだろう」
魔王は、ローブを脱いだ。露わになった、筋骨隆々のドワーフ。胸元まで届く、見事な髭。その持ち主がその髭を嫌悪の目で見つめている。
「来い。俺と最後の話をしよう」
……そして俺は前に出た。カミソリを握って。
二人、見つめ合う。玉座の間の中央で。
「……最後に、俺の言葉を聞け」
魔王が言った。
「俺は今でも思う。髭のせいで俺は愛されなかった。……この世界に来て髭が『愛されるもの』だと知ってなお、俺はそれが信じられなかった。憎しみとはそういうものだ。根拠があろうとなかろうと、いったん根を張ると抜けない」
「……ああ、知ってる」
俺は頷いた。前世の自分のことだ。清潔感だけを信じていた自分。髭を『だらしなさ』の象徴として嫌っていた自分。あの頃の俺が、ドワーフの髭文化を見たら、何と思っただろう。……たぶん、この男と同じように、『気持ち悪い』と思ったはずだ。
「だが、それでも……」
魔王が言った。
「お前は変わったな」
「……ああ、変わった」
「……俺には、分からなかった」
魔王は俺の髭を見ていた。
「なぜ、お前がそれを嫌っていたはずなのに、今は迷っているのか」
「俺には分からん」
「髭を誇る者たちも。お前を髭ごと受け入れた者たちも」
その手が、ゆっくりと伸びた。
俺は避けなかった。指先が、俺の髭に触れる。
まるで、初めて触れるものを確かめるように。
「……温かいな」
「は?」
「分からんものを、俺はずっと憎んでいた」
魔王は、目を伏せた。
「だが、お前は違った」
「お前は、分からなくなった」
「それでも、ここに立っている」
その声は、どこか悔しそうだった。
「……俺には、それができなかった」
その瞬間。
魔王の目から何かがこぼれ落ちた。涙だった。憎しみの果てにたどり着いた男の涙。俺にはその一滴がとても重いものだということだけは分かった。
「……これでいいんだ。俺はこの髭を愛せなかった。だが、お前は愛した。それで……ようやく、俺の物語は完結する」
「完結って……」
……それはきっと、いい意味の言葉だ。そう思った。長かった因縁に、ようやく決着がつく。そういう意味だと、俺は勝手に思っていた。
「寄越せ、その刃。俺が終わらせる」




