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髭がそりたいだけなのに〜聖剣はカミソリだった!?〜  作者: 藤紫


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第二十四話 分からないまま

 朝。


 魔王城の客間で目を覚ますと、窓の外の時計塔は、まだおかしかった。

 昨日まで逆回りしていた針が、止まっている。


 ……いや。


 ときおり、ひゅっ、と逆へ滑る。


 だが、以前のように延々と同じ場所を巻き戻しているわけでもない。

 まるで、次にどちらへ進めばいいのか分からないみたいに。

 俺は、一睡もできなかった。

 昨夜の話が、頭の中にへばりついている。

 一号。

 後始末。

 表計算ソフト。

 そして――あの問い。


『お前は、その髭を、どうしたい』


 答えられなかった。

 今も、まだ。


 扉の外から、やけに元気な足音が近づいてきた。

 ……アリシアだ。

 この空気を読まない感じが、今はありがたい。


「剣聖様! 今日こそ決戦です! 朝食はしっかり食べてください!」


 扉が勢いよく開いた。


「この肉、昨日の二倍焼きましょう!」


「二倍焼いても、お前が食うんだろ」


「いえ! 今回は半分は剣聖様の分で……」


「残り半分は?」


「私です!」


「結局お前が食うんじゃねえか」


「剣聖様にも、ちゃんと二倍です!」


「何を基準に二倍なんだよ」


 絶妙に話が通じていない。

 アリシアは、今日も絶好調だった。

 無敵だ。

 世界の命運がかかっている朝でも、肉を二倍にすることしか考えていない。


 セリアは酒の残り香を漂わせながら、のっそりと起きてきた。


「あー……頭痛い……」


「朝から酒臭えな」


「今日は休戦にしません?」


「しねえよ」


「魔王と酒を酌み交わすのも、まあ、悪くない選択だと思うんですけどね」


「世界の危機をなんだと思ってる」


「二日酔いよりは軽いかな、と」


「重症だろ、それ」


 世界の危機が、どうでもよさそうな顔をしている。


 そして。


 エルヴィラは、黙って襟を整えていた。

 昨夜。

 俺は『二号』の話を……全部、話した。

 彼女は、ひとしきり黙っていた。

 そして。


「……タカハシさん」


「なんだ」


「私は、あなたがこの世界に呼ばれた理由が『後始末』であっても構いません」


 思わず、顔を上げた。


「むしろ、それのほうがあなたという人間を証明する話だと思います」


「……どういう意味だ」


「後始末の道具として呼ばれた者が」


 エルヴィラは、まっすぐ俺を見た。


「自分で選んで、ここまで歩いて来た」


「……」


「道具が、自分の足で歩いたんです」


 彼女は、少しだけ笑った。


「……それだけでもう、『後始末』じゃないでしょう」


 ……道具が、自分の足で歩いた。

 その言葉は、胸の奥で少しだけ温かかった。

 俺が何のために呼ばれたのか。

 神が何を期待していたのか。

 それはもう、俺にはどうでもいいのかもしれない。


 少なくとも。

 俺がここまで歩いて来たのは、俺自身だ。

 誰かに命令されたわけじゃない。

 誰かに操られていたわけでもない。

 ドルグの家で飯を作ったのも。

 ピーラーを作ったのも。

 旅に出たのも。

 雪山を越えたのも。

 湿地を抜けたのも。

 全部。

 俺が選んだ。


 ……だが。


 温かいだけでは、あの問いへの答えにはならなかった。


『お前は、その髭を、どうしたい』


 俺は、自分の顎に触れた。そこには、いつもの髭がある。

 何度も。

 本当に何度も、剃りたいと思った髭だ。


 なのに。

 今は。

 それだけじゃない。


◇◇◇


 玉座の間。

 重い扉が開く。

 魔王は、玉座に座っていた。

 昨日と同じ黒いローブ。高く立てた襟で、顎を隠している。

 だが、空気は違っていた。

 昨日の、重く凍りついたような空気ではない。

 静かだった。

 窓の外、時計塔の針が、かちり、と音を立てた。

 前に進んだ。


「……来たか」


 魔王が立ち上がる。


「決着だ」


 低い声が、玉座の間に響く。


「お前と俺と。その刃で」


「……ああ」


 俺は帯から、布包みを取り出した。

 ゆっくりと解く。

 浄鉄のカミソリ。

 ドルグが、俺のためだけに打ってくれた、世界で、ただ一本の刃。

 朝の光を受けて、銀色に静かに輝いている。


「最後に、もう一度だけ聞く」


 魔王が、一歩踏み出した。


「お前は」


 その視線が、俺の顎へ向く。


「その髭を、どうしたい」


 俺は、答えなかった。


 ……いや。


 答えられなかった。

 しばらく、沈黙が続いた。


「……分からない」


 ようやく、そう言った。


「ほう」


「昨日までは分かってた」


 俺は、自分の顎を撫でた。


「剃りたい。それだけだった」


 髭が指に触れる。


「でも……」


 思い出す。

 雪山。アリシアの顔を守った髭。

 湿地。エルヴィラの香油を染み込ませた髭。

 夜。セリアが寝ぼけて寄りかかってくる髭。

 関所。補給官たちが、一目置いた髭。


 そして。


 ドルグが、何も言わずに貸してくれた、油と櫛。


「俺は、この髭で」


 一度、言葉が止まった。


「この世界に馴染んだんだ」


 魔王は、黙って聞いている。


「雪山を越えて。湿地を抜けて。関所を通って」


 俺は、カミソリを見た。


「気づいたら……ずっと、この髭と一緒にいた」


 笑いそうになった。こんなことを言う日が来るなんて。


「だから今さら、『剃りたい』だけでもない」


 顎に触れる。


「……かといって、『失いたくない』って言い切れるかって言われたら」


 俺は、首を横に振った。


「それも嘘になる」


 剃りたい。でも、この髭が嫌いだった頃の自分とも、もう違う。


「だから」


 魔王を見る。


「分からない」


 長い沈黙があった。やがて、


「……分からない、か」


 魔王が呟いた。


「それが、答えだとでも言うのか」


「知らねえよ」


「……そうか」


 魔王は、目を伏せた。


「俺には、無理だった」


「……何がだ」


「分からないまま、生きることが」


 俺は、黙った。


「嫌だった」


 魔王は、自分の顎に手をやった。高い襟の向こう。そこに、どんな顔があるのか。俺には、まだ見えない。


「だから、消した」


 声が、低く響く。


「戻りたかった」


 時計塔が、かちり、と鳴った。


「だから、戻した」


 魔王は、ゆっくりと顔を上げた。


「それだけだった」


「……」


「嫌なものは、なくせばいい」


「……」


「失ったものは、戻せばいい」


 その声に、昨日までの魔王らしい強さはなかった。


 あるのは、ただの、どうすればいいか分からなかった男の声だった。


「俺には」


 魔王は言った。


「『分からない』まま、立ち止まることができなかった」


 その目が、俺を見る。


「だから、お前はもう俺とは違う」


 背筋が、わずかに冷えた。


「……何だよ、それ」


「お前は、俺とは違う答えを出した」


「だから『分からない』って言ってるだろ」


「それでいい」


 魔王は、少し笑った。


「俺には、それができなかった」


 その笑みは、どこか、寂しそうだった。

 だが、次の瞬間、魔王の視線が、俺の手へ落ちた。


 浄鉄のカミソリ。


「だからこそ」


 空気が変わった。


「俺には、それが邪魔だ」


「……は?」


 魔王が一歩、踏み出す。


「寄越せ」


 低い声。


「その刃を」


 俺は、反射的に、カミソリを握り込んでいた。


「……嫌だ」


 自分でも驚いた。剃りたいのか、残したいのか。

 まだ、分からない。それなのに。

 魔王の目が、わずかに細くなる。


「剃りたくないのか」


「分からねえ」


「ならば、なぜ拒む」


 答えられなかった。

 いや。

 答えなんて、まだ出ていない。

 それでも、俺は、カミソリを握ったまま言った。


「……今は、渡せねえ」


 沈黙。

 魔王は、しばらく俺を見ていた。

 やがて


「そうか」


 小さく笑った。その声は、どこか諦めたようで、同時に、決意したようでもあった。


「ならば」


 一歩、魔王が、踏み出した。


「奪うまでだ」

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