第二十一話「魔王は、俺のことを後釜と呼んだ」
朝。魔王城の門は……開いていた。
昨夜見たカラッポの甲冑が、そのまま、並んでいる。守る者もなく。まるで、待っていたみたいに。
「……罠の可能性が高いです」
エルヴィラが呟く。
「罠でも何でも、進むしかないでしょ。世界を救うんだから」
アリシアは、昨日の肉の勢いで、今日も絶好調だった。うん、無敵だ。
「あー……頭痛い……」
セリアは、昨日の酒の勢いで、今日も絶不調だった。無事だな、うん。
城の中は、奇妙なほど静かだった。人気がない。いや……『人がいない』んじゃない。『時間が止まっている』。廊下を渡る風もなく、蝋燭の火も、ゆらゆらと揺れない。昨夜の焚き火と同じ、あの『止まった空気』。
そして、時計塔の針は……逆回りだった。間近で見ると、その不気味さがよく分かる。秒針が、一秒ずつ、確実に、『過去』へ向かって、動いている。
俺は、背中の布包みを、無意識に押さえた。カミソリが、微かに、温かい。……いや、そんなはずはない。ただの金属だ。俺の錯覚だ。
玉座の間。
広い。暗い。天井が高い。最奥に、ひとつの玉座。
座っている者がいた。
黒いローブを纏った、大柄な人影。肩幅が広く、岩のような体躯。兜も、フードも被っていない。だが……顔は、よく見えなかった。薄明かりが、ちょうど、その顔の上半分に影を作っている。そして、ローブの襟が、やけに高く、顎を隠すように、立っていた。
……顎を、隠している。
俺の背中を、冷たいものが走った。エルヴィラの報告が、頭をよぎる。魔王は、民に一度も顔を見せない。時計塔の針は、逆回りのまま。『天より堕ちし者、常の理を壊す』。
魔王だ。
「よくぞ参った」
声は、低く、重く、響いた。威厳という言葉が、これほど似合う声も珍しい。玉座の間の空気が、ぶるりと震える。……実際に震えている。魔力の圧が、床を、空気を、震わせている。
「勇者アリシア。エルフの賢者、ヒューマンの神官。それから……」
魔王の視線が、俺で、止まった。
「……ドワーフが、一人」
その一瞬。魔王の、ローブの下で、手が。無意識に、顎へ、伸びた。
…はっ、として、引っ込めた。
俺には、それが見えた。営業マンの、観察眼ってやつだ。相手の無意識の仕草は、見逃さない。これは、癖だ。長年の。無意識の。そして、その癖は……顎に手をやる癖は、何を隠そう、俺自身にも、最近、ある。
(髭を触る、癖)
「剣聖様!」
アリシアが、俺の前に、立ちはだかった。彼女の中では、俺は『剣聖』なので、魔王から俺を守るのが使命なのだろう。猪突猛進だが、義理は堅い。
「魔王! 聖剣は渡さない! そして、あなたも、もう世界を乱すのは、やめなさい!」
「聖剣?」
魔王は、微かに首を傾げた。その動作も、妙に人間くさい。
「どこに、そんなものが」
「ここにある! 剣聖様が持っている!」
「アリシア、お前なあ……!」
アリシアが、ぽん、と、俺の背中を押した。布包みが、ずるりと、前に出る。仕方なく、俺は……布を開いた。
銀色の刃が、薄暗い玉座の間に、かちり、と。月明かりのような、静かな光を落とした。浄鉄の刃。俺のための、カミソリ。
……魔王の、動きが、止まった。
「……それは」
低い声が、震えた。威厳のある、あの声が、まるで別人のように、震えた。
「それは、……カミソリ、ではないか」
……え?
勇者パーティーの空気が、凍った。……いや、凍ったのは俺とエルヴィラとセリアの三人で、アリシアだけは、きょとんとしている。
「カミソリ? ……ええ、確かにあれは聖剣『神剃り』です!なぜあなたがそれを……」
「カミソリだ」
魔王は、立ち上がった。玉座から。ゆっくりと、まるで崇拝者のように、一歩、また一歩と、俺に向かって歩いてくる。アリシアが剣を構えたが、魔王は、気にもしていない。その目は、俺の手の……カミソリだけを、見ていた。
「薄く、鋭く、肌を傷つけず、毛だけを落とす。……その刃の曲線。持ち手の角度。重心。すべてが、髭を剃るためだけに、設計されている。こんな完璧なカミソリを、俺は前世でも、この世界でも、見たことがない」
……前世。
その言葉に、俺の胸が、どくん、と鳴った。この男は、何を言った? 今、確かに『前世』と言った。ドワーフの言葉に、そんな単語はない。……いや、それ以前に、この世界の人間が、『カミソリ』の何たるかを、これほど的確に語れるはずがない。これは、俺の世界の道具だ。日本の、洗面台の、あの……。
「……お前」
「ああ、分かっている。ここでは、言うな、か。安心しろ。客人を、敵に回すような真似はしない。……ただし」
魔王は、俺の、すぐ目の前で、立ち止まった。
「そのカミソリだけは、置いていけ」
「置いていけません」
俺は、反射的に、カミソリを背中に隠した。魔王の目が、わずかに、細くなる。
「ほう。命の危険を冒してまで、それを守るか」
「これは、俺の……俺のものだ。誰にも、渡す気はない」
「ふむ」
魔王は、顎に手をやった。今度は、無意識ではなく、明らかに、意識して。それは、考え込むときの仕草というより……何かを、堪える仕草だった。
「……よかろう。ならば、問おう」
魔王は、ローブの襟に手をかけた。そして、ゆっくりと……脱いだ。
露わになったのは、ドワーフだった。
俺と同じ、ドワーフの男が、そこにいた。筋骨隆々の体躯。鍛冶で鍛えたような、太い腕。そして、その顔には……見事なまでに、立派な髭が、蓄えられていた。
胸元まで届く、茶色い、豊かな髭。俺の髭より、ずっと長い。ドワーフの世間なら、誰もが一目置く。一族の誇りと、呼んでいい髭だ。
なのに。
その髭を、彼は……まるで、呪いを見るように、睨んでいた。
「……あれ、すごくいい毛並み」
セリアが、小声で言った。
「毛布にしたら、最高だろうな」
「こら。敵の大将の髭を、毛布にするな」
「……いえ、大変遺憾ながら」
エルヴィラが、目を、それはもう輝かせて、呟いた。
「あの髭は、研究する価値があります。敵対中でなければ、触らせてもらいたいところですが」
遺憾ながら、って言った。遺憾ながら、って。
「俺はな、ドワーフだ。この世界に来た時から、髭があった。立派な髭だと、褒められた。褒めれば褒めるほど、俺は——この髭が、憎くなった」
「……は?」
「髭が生える。伸びてくる。昨日の俺に、戻れない。手入れをすれば、するほど、立派になる。誰かが、俺の髭を、『立派だ』と褒めるたびに、俺は……この髭ごと、俺を、切り落としたくなった」
玉座の間の空気が、ぎしり、と軋んだ。魔力の圧が、強くなる。床の石畳に、ひびが、走る。アリシアが「な、なに……!」と声を上げ、エルヴィラが即座に防御魔法を展開した。
「だから、俺は、時に、手をかけた」
魔王は、そう言って、笑った。……笑ったが、目が、笑っていなかった。
「生える前の、憎まれる前の俺に、戻りたくてな。時を巻き戻した。何度も、何度も……」
魔王は、そこで、言葉を切った。そして、抑えきれない何かが込み上げるように、絞り出すように、続けた。
「……だが、戻れなかった。ドワーフの髭は、時を遡っても、消えぬ。加護か、呪いか。魂に刻まれたものらしい。俺は、どこへ戻っても……髭のある俺にしか、戻れなかった」
「……」
「憎まれる前の俺には、どこまで行っても、辿り着けなかった。……実に、滑稽だろう。時空魔法を極めた魔王の、たった一つの願いが、叶わないとはな」
……違う。
俺は、言葉を失っていた。この男の言っていることは、俺の知っているドワーフ社会と、まるで違う。この世界では、髭は家宝だ。誇りだ。『立派だ』は、最大の褒め言葉だ。実際、関所の補給官たちも、道中で会った魔王軍の四天王も、俺の髭を見て、そう言った。
ガルムは、確か……『魔王様も髭が邪魔だと呟いていた』と、言っていた。
あれは、呟きではなかった。呪いだったんだ。
「それは……違う」
俺の口が、勝手に動いていた。
「この世界じゃ、髭は信用だ。成人の証だ。俺は、この髭のおかげで、何度も救われた。雪山で、顔を守ってくれた。交渉で、信用してくれた。眠れない夜も……」
「それが、何だ」
魔王の声が、静かに、俺の言葉を断ち切った。
「お前は、髭に救われた。俺は、髭に殺されかけた。同じ髭でも、お前と俺では、意味が違う。……当たり前だろう。所詮、俺とお前は、別の人間だ」
「だからって、時間を巻き戻すのは……逃げてるだけだろ」
俺は、言った。言ってから、しまった、と思った。だが、口にした言葉は、もう戻せない。
魔王は、一拍、間を置いて。
「……逃げた者に、言われる筋合いはない」
低く、冷たい声だった。今度は、魔力とは違う、何かが、その声に乗っていた。
「お前も、何かから、逃げてきたんだろう。この世界に落とされる、ずっと前から」
「……」
「俺には、分かる。お前の目は、俺と同じだ。何かを、憎んでいる。何かを、消したいと思っている。そして……」
魔王が、すう、と。鼻で、息を吸った。まるで、匂いを嗅ぐように。そして……その目が、見開かれた。
「……香りで分かった。お前。神の刻印だ。それも、新しい。……そうか。そういうことか」
「は? 何を、言って……」
「あの神は、俺を、諦めたのか。それとも……」
魔王は、嗤った。嗤って、言った。
「新しい駒を、落としたか。……俺の、後釜にな」
……後釜。
その言葉が、脳に刺さった。頭の中で、何かが、弾けた。記憶が、よぎる。
目覚めたら、天井がなかった。水たまりに、知らないオッサンの顔。そして……あの、事務的な、あの声。
『……チート能力は、ありません』
あの声は。俺を転生させた、あの声は。……神の声だと、勝手に思っていた。神が俺に新たな人生を与えたんだと思っていた。
けれど、今、俺の目の前にいる男は、言った。
『後釜』だと。『新しい駒』だと。
つまり、俺は……お前の、失敗の後始末として、呼ばれたのか。
「……続きは、また夜にでも聞かせてもらおう」
魔王は、ローブを拾い上げ、ひるがえした。背を向けて、玉座へ戻っていく。その背中越しに、もうひとつ、言葉を投げてきた。
「そのカミソリは、俺がもらう。お前の答えも、な。……逃走は、考えるなよ。この城の時間は、時空魔法が暴走して、逆回りにしか進まない。つまり……お前たちの『未来』は、ここにしかない」




