第二十話「剃れる夜なのに、剃れなかった件」
魔王城は、近くで見ると、意外なほど静かだった。
いや、城そのものは十分に不気味だ。黒い岩を積み上げたような造りで、窓は少なく、門のわきに立つ衛兵の甲冑が、槍を抱えたまま動かない。動かないというか、中に人間が入っていない。カラッポの甲冑が、そのまま門を守っている。
焚き火を囲んで、勇者パーティーの面々が座っている。明日の決戦を前に、アリシアは持てる限りの肉を焼いていた。……いや、焼き終わる前に、もう食べている。順番がおかしい。
「剣聖様! 明日こそ、聖剣の真価が発揮される日です!」
「だから、あれは聖剣じゃなくて、ただのカミソリだって」
「大丈夫です、剣聖様。あなたの剣技なら、魔王など……」
「剣技も何も、俺は一太刀も振ったことないんだが」
アリシアは、うんうん、と頷いて、肉を食っている。話を聞いていない。聖剣をまっすぐに信じている分、この娘は、いつだって強い。脳筋は、無敵だ。
エルヴィラは、膝の上に分厚いノートを広げて、難しい顔をしていた。この町に着いてから、古文書館に足を運んで調べた、魔王城の記録らしい。セリアは、焚き火のそばで、酒の匂いをさせながら、もうすやすや寝ている。いつも通りだ。
「……タカハシさん」
エルヴィラが、ノートを閉じて、顔を上げた。
「あの魔王、少し、妙です」
「今更何を」
「魔王は、その姿を、民に、一度も見せたことがないらしいんです」
「……姿を?」
「ええ。この城を獲ってから、ずっと。謁見を望む者にも、使者にも、誰一人、その顔を見た者がない。何をしているのかも、何を考えているのかも、誰も知らない」
「顔も見せずに、魔王を名乗ってるのか」
「そうなりますね。だからこそ、この城は、噂ばかりが膨れ上がっている。何百年も生きているとか、人ならざるものだとか、顔を見た者は呪われるとか……」
「で、実際は」
「何も、分かっていません。ただ、ひとつだけ、確かなことがあります。城内の時刻が、妙に狂っているらしいんです。時計塔の針が……逆回りに、回っていると」
「逆回り?」
「噂では、数十年、ずっと」
「数十年も逆回りしてる時計を、誰も直さないのか」
「直せないんです。直しても、直しても、次の瞬間には、また逆回りに戻る。……まるで、あの塔だけ、時間が逆行しているかのように」
エルヴィラは、そこで一度、言葉を切った。その目が、妙に真剣だった。
「古文書には、こう記されています。『天より堕ちし者、常の理を壊す』」
「……天から、堕ちた、者」
「ええ。私は、てっきり比喩かと。かつて天界から堕ちた神の例え話かと……」
エルヴィラは、俺を見た。いや、俺の顔の、もっと奥を見るような目だった。
「タカハシさん。あなたは、『天より堕ちし者』という言葉を、ご存知ですか」
……天から落ちてきた者。
俺の背中を、冷たいものが走った。天井のない朝。水たまりに映った、知らないオッサンの顔。そして……あの、事務的な声。
(俺のことじゃないか、それ)
声は、出なかった。一瞬、固まった。それだけで、十分だったらしい。
「……失礼しました。妙なことを言って。忘れてください」
エルヴィラは、すっと視線を外して、ノートを鞄にしまった。賢者というのは、察するところがあっても、それ以上は踏み込まない生き物なのだろう。……それとも、俺の髭を守るために、わざと引いたのか。どちらにせよ、胸の奥に、冷たい何かが、ひとつ、残った。
◇◇◇
夜が更けた。
焚き火の番を順番に、という話になったが、三人はすべて、即落ちだった。アリシアは食べた直後に撃沈し、セリアは酒で沈み、エルヴィラはノートを抱えたまま、気づけば眠っていた。明日が決戦だっていうのに、結束のゆるさが、半端ない。……まあ、そのほうが、俺にとっては好都合だった。
俺は、少し離れた小川のほとりに移動した。月明かりの下で、水が白く光っている。その水で布を湿らせ、顔を拭く。それから、鞄から櫛と油を取り出した。
ドルグが貸してくれた、黒い革箱の中身。髭のための油と櫛。最初は「仕事だから…整えるんだ」と思った。今は、使っている。使ってしまっている。
櫛を入れる。根元から、毛先に向かって。三日ほど前に整えた毛流れが、少し乱れてきている。油を手のひらに伸ばして、髭全体に、指でとかしながらなじませる。最後に、顎のラインを、手のひらで確認する。
……そこで、俺は手を止めた。
今、俺は、何をしてる?
髭の手入れを、している。誰に言われたわけでもなく。人に見せるためでもなく。ただ、明日のことを思えば、乱れた髭で出るのは、落ち着かないから。
……前世の俺だったら、どう思っただろう。清潔感命の俺は、『髭が生えてる=だらしない』と、それだけだった。剃りたい。生えてくるな。それが、すべてだった。
それが今は、油をつけて、梳いて、毛流れを整えて……『ちゃんとしている』状態に、している。
「……まあ、いいか」
俺は、櫛を置いた。そして、鞄の奥から、もうひとつ、取り出した。
布に包まれた、細長いもの。
ドルグが、浄鉄を炉に入れて、打ち上げた刃。俺のためだけに打たれた、世界でただ一本の……カミソリ。
布を開くと、月明かりの下で、銀色の刃が、静かに光った。浄鉄の色。鍛冶場の熱気と、ドルグの低い声が、ふと、蘇ってくる。『一本だけだ。お前が欲しがった、薄く、鋭い刃を打つ』。
握る。この旅の間、毎晩、この重さを確かめてきた。手に馴染む。この刃は、俺のための刃だ。
……さあ。
ここには、誰もいない。アリシアも、エルヴィラも、セリアも、眠っている。止める者はいない。邪魔をする者もいない。
髭を剃る。この世界に来てから、一度たりとも叶わなかった。俺の、朝を取り戻す。
刃を、顎に、近づける。
……近づける、までは、できた。
あと、数ミリ。その距離で、俺の手は、止まっていた。
……どうして。
理由が、分からなかった。
風が吹いて、焚き火の煙が、流れてきた。その匂いと一緒に、いろんなものが、ばらばらと、頭の中に流れ込んでくる。
ドルグの、棚の奥の黒い革箱。油と櫛。金属板に映る、整えた髭。鍛冶場の熱気。
雪山で、アリシアの顔を守った髭。凍りついた息。『恩髭』と呼ばれて、すごく腹が立ったのに……悪い気は、していなかった。
湿地帯で、エルヴィラの香油をすり込んだ髭。虫が寄ってこなくて、彼女が、あれほど嬉しそうに解説した、あの顔。
夜、セリアがもぞもぞと寄ってきて、髭に顔を埋めて、『……あったかい毛布』と言った、あの重み。
関所で。補給官が、荷役頭が、俺の髭を見て、目を丸くして、『ドワーフの旦那が来てくれて助かった』と言った、あの感じ。髭があると、話が通る。信用される。たかが毛なのに、俺の『営業』を、背中から支えてくれていた。
(……役に立つことと、剃りたいことは、別だ)
そうだ。それは、ずっと、そう思ってきた。今も、そう思っている。
役に立つとか、立たないとか。人にどう見えるとか。そういうのと、俺が髭を剃りたい気持ちは……。
(……本当に、別なのか)
手が、震えた。
違う。答えは、出さなくていい。俺は、ただ、髭を剃りたい。それだけだ。それだけのはずだ。だって、俺は……。
そのとき。
すう、と。風が、止んだ。
……いや、風ではない。空気が、止まった。焚き火の煙が、真っ直ぐに立ち上ったまま、固まっている。世界から、音が、消えた。
そして。
ぐるり、と。
聳え立つ魔王城の、時計塔の針が……大きく、逆回りに、回った。
針が回る。秒針が、分針が。時間を巻き戻すように、狂ったように回る。さっきまで『噂』でしかなかったものが、今、肌で感じられる。時間が、この場所から、どこかへ向かって、逆流している。あの城を中心に、世界そのものが、ゆっくりと……『戻ろう』としている。
……それが、たまらなく、既視感のあるものに、感じたのは、なぜだ。
俺は、あの朝を思い出していた。天井のない、あの朝。水たまりに映った、知らないオッサンの顔。『チート能力はありません』という、あの事務的な声。
何かが、壊れている。あの城の中で。
そして、俺は、それを……知っている気がする。
俺は、小川の水を、覗き込んだ。月明かりの下の、水面。
そこに映った自分の顔は……一瞬だけ、違う男の顔だった。
顎の辺りだけ、ぼやけて。誰かの、別の顎が。同じように豊かな髭を蓄えて、同じように……その髭を、憎んでいる顔が。
「……誰だ、お前」
声は、響かなかった。水面は、もう、元の俺の顔に戻っていた。
謎かけみたいな夜だ。だが、一つだけ、確かなことがある。
明日、俺は、あの城に行く。そして、あの『何か』に、会う。
俺は、布でカミソリを包み、鞄に戻した。今日は、もう、剃らない。
剃れる夜だったのに。誰も止めなかったのに。
俺は、剃れなかった。剃らなかった。どっちなのか、自分でも、よく分からない。




