第十七話 今のは、笑えません
遅くなりました。すいません
魔王城が近づくにつれて、道は逆に静かになっていった。
村も宿場も減り、行き交う旅人もいない。空は妙に広く、風は乾いている。いかにも「この先にろくでもないものがあります」と地形が自己申告している感じだ。
俺たちはその日も、街道脇の開けた場所で野営を張っていた。
焚き火の上では薄いスープが煮えている。アリシアは薪を足し、エルヴィラは結界の確認をし、セリアは毛布にくるまって酒袋を転がしていた。
いつも通りだ。
そして、いつも通りすぎるのが、最近ちょっとだけしんどかった。
「今日は虫、少ないですね」
アリシアが、ほっとしたように言う。
「剣聖様の近くですからねぇ」
セリアが、毛布の中から気だるげに返した。
「防虫髭、仕事してるんじゃないですか」
「その肩書き、そろそろ削除したいんですが」
「えー。便利なのに」
「便利かどうかと、欲しいかどうかは別です」
「出た、営業トーク」
「営業トークじゃなくて普通の権利の話です」
軽口だ。軽口なのはわかっている。
わかっているから、俺もいつも通り返した。返してしまった。
アリシアが笑う。
「でも本当に、タカハシさんの髭には助けられてばっかりですね! 恩髭で、防寒髭で、防虫髭で――」
「抱き枕髭も」
セリアが追撃した。
「その話を蒸し返すのはやめてください」
「だって事実ですし」
「事実でも会議で共有しなくていいものはあるんですよ」
笑いが起きる。
俺も口の端だけは上げた。上げたが、頬の筋肉はもう営業残業みたいに疲れていた。
最近、みんながこの話をするときの温度が少しずつ変わっているのを感じる。
最初は事故だった。
次は役に立った。
その次は、便利だった。
今はもう、半分「そういうもの」として扱われている。
俺の髭が。
俺の顔に生えてるのに。
スープを配り終えたあと、アリシアが木椀を抱えたまま言った。
「もう剃らなくてもいいんじゃないですか?」
あっけらかんと。
「ここまで役に立ってるんですし」
たぶん、本当に悪気はなかった。
だからこそ、すぐには返せなかった。
「……そういう話じゃないんですけどね」
なんとかそれだけ言って、俺は視線を鍋に落とした。
セリアが肩をすくめる。
「でも今さら剃ったら、こっち困るんですよねぇ」
「困るって」
「夜寒かったら困るし、虫も来るし、あとたまに寝心地いいし」
「最後が最低なんですよ」
また笑いが起きる。
アリシアまで、くすくす笑った。
「剣聖様の髭、完全に旅の共有資産ですね!」
「共有資産じゃありません」
「え?」
「いや……」
言い切れなかった。
言い切るほど空気が重くなる気がして、そこで飲み込んだ。
飲み込むのは、得意だ。
営業だったから。
場を悪くしない。空気を壊さない。衝突より着地。相手の善意は踏みにじらない。
そういうのは、得意だった。
……得意だったはずなのに、今日は妙に喉に引っかかった。
◇◇◇
夜が更ける。
見張りの順番をざっくり決めて、全員が少しずつ静かになっていく。アリシアは火のそばでうとうとしている。セリアは毛布の中で早くも半分寝ている。エルヴィラだけが本を開いたまま、焚き火の明かりで何かを書きつけていた。
今ならいける、と思った。
俺はそっと荷の陰に回り、革箱を開ける。
浄鉄のカミソリが、かすかな火を受けて白く光った。
何度も何度も邪魔された。
恩髭だの、防寒だの、防虫だの、抱き枕だの。
肩書きばっかり増えていく。
だけどそれはそれだ。
俺は、剃りたい。
そう思って、刃に指をかけたときだった。
「剣聖様?」
背後から、明るい声がした。
びくっと肩が跳ねた。
振り返ると、アリシアが立っていた。目が合って、彼女はぱっと表情を明るくする。
「やっぱりまた剃ろうとしてたんですね!」
「……はい」
「もう。まだ諦めてなかったんですか」
笑いながら近づいてくる。
その温度の軽さに、胸の奥が少しだけ冷えた。
「諦める理由、ありました?」
「だって、みんなで止めたじゃないですか」
「止めたというか、勝手に止まったというか……」
「同じですよ!」
同じではない。
その言葉が喉まで出かかったところで、アリシアがひょいと手を伸ばした。
「はいはい、今日はしまっておきましょう」
悪気のない調子で。
「また変なところで使われたら大変ですし……」
彼女の指先が、カミソリに触れそうになった。
その瞬間だった。
「……今のは、笑えません」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
アリシアの手が止まる。
焚き火の音だけが、やけに大きく聞こえた。
セリアが毛布の中で身じろぎし、エルヴィラも本から顔を上げる。
アリシアは、ぱち、と目を瞬かせた。
「え……」
俺はカミソリを握ったまま、彼女を見る。
笑っていない顔で、彼女を見る。
「今のは、笑えません」
もう一度言った。
「冗談でも、軽く触っていい話じゃないです」
アリシアの顔から、さっと色が引いた。
「わ、私……」
「みんなが便利だと思ってるのは知ってます」
言葉が止まらなかった。
「役に立ってるのも知ってます。助かったことがあるのも、わかってます」
喉が熱い。けれど声は妙に冷えていた。
「でも、それとこれとは別です」
焚き火の向こうで、セリアが完全に目を覚ました。
エルヴィラは何も言わない。
俺はそのまま続けた。
「俺の顔は、俺のものです」
はっきりと。
「髭が役に立ったからって、だから剃るなとか、もう諦めろとか、勝手に決めないでください」
息を吸う。
「ずっと冗談みたいに流してきましたけど、別に、諦めたわけじゃありません」
少しだけ、声が掠れた。
「空気を悪くしたくなくて、言わなかっただけです」
静かだった。
本当に、しんと静まり返っていた。
いつもならすぐ何か返ってくる。アリシアが勢いで何か言って、セリアが茶化して、エルヴィラが理屈を乗せる。そういう流れになる。
でも、今回は誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、アリシアだった。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
「私、止めるのが当たり前みたいに思ってました」
彼女はまっすぐ頭を下げた。
「助けてもらったから、守らなきゃって。そう思って……でも、勝手でした」
顔を上げる。
「ごめんなさい」
俺はすぐには返せなかった。
怒っている。
でも、怒鳴りたいわけではない。
ただ、わかってほしかっただけだ。
焚き火の向こうで、エルヴィラが静かに言う。
「……失礼しました」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「有用性の観察に意識が寄りすぎて、所有者の意思を軽んじていました」
まっすぐ俺を見る。
「研究者として、一線を越えていたかもしれません」
「研究者として、って言い方はどうかと思いますけど」
反射でそう返した。
返してから、自分でも少し驚いた。
まだ、ちゃんとツッコめるらしい。
セリアだけは、すぐには口を開かなかった。
毛布にくるまったまま、少し離れたところから俺を見ている。その視線だけが、妙に静かだった。
誰ももう、冗談を言わなかった。
◇◇◇
その夜は、そのまま妙に静かなまま過ぎた。
アリシアは薪を足す手つきまで慎重で、セリアは珍しく無駄口が少なく、エルヴィラは本を閉じたまま火を見ていた。
気まずい、と言えば気まずい。
けれど、さっきまでの軽さに戻るよりはずっとましだった。
しばらくして、見張り交代のタイミングでセリアがすっと俺の隣に来た。
「タカハシくん」
「はい」
「言うべきときに言えるの、いいと思うよ」
それだけ言って、彼女は毛布を引きずったまま去っていった。
らしくない。
いや、たぶん、あれがあの人なりの「かなりちゃんとしてる側」なんだろう。
焚き火が小さくなる。
やがて、みんな本当に眠った。
俺は一人、荷の陰へ移った。
革箱を開ける。
誰も来ない。
止める声もない。
「恩髭」も「防虫髭」も「抱き枕髭」も、今はどこからも飛んでこない。
カミソリを手に取る。
軽い。
ドルグと作った、あの刃だ。
今日こそ。
そう思って、いつものように顎へ手をやる。
髭に触れる。
……そこで、手が止まった。
「……は?」
思わず自分で声が出た。
何をしてるんだ、俺は。
邪魔はない。
誰も笑っていない。
誰も止めない。
やっと一人だ。
だったら剃ればいい。
ずっとそう思ってきた。
ずっと、それだけだったはずだ。
なのに、刃が動かない。
指先で髭をつまむ。
山では冷気を防いだ。
湿地では虫を遠ざけた。
宿では、誰かが顔を埋めて眠った。
どれも望んでない。望んでないのに、覚えてしまっている。
「いや……だからって」
役に立ったから何だ。
愛着があるわけじゃない。
剃りたい気持ちが消えたわけでもない。
それなのに、いつもみたいに「さっさと消えろ、このモジャモジャ」と思い切れなかった。
刃先が、月を映す。
俺はしばらくそのまま固まって、結局、カミソリを革箱に戻した。
剃らなかった。
剃れなかった、のほうが近い。
誰にも邪魔されなかった夜に限って、自分で止まるなんて。
笑えない。まったく笑えない。
焚き火の残り火が、ぱち、と小さく弾けた。
魔王城は近い。
その前に、俺はたぶん、別の意味で詰まり始めている。




