第十六話 屋根の下でも、髭は休ませてもらえない
湿地帯を抜けたその日の夕方、俺たちはようやく宿場町にたどり着いた。
石畳。屋根。乾いた壁。まともな寝台。
文明だ。いや、この世界基準では文明じゃないのかもしれないが、少なくとも「上から水滴が落ちてこない」「羽虫が顔の周りで会議を始めない」という時点で、俺にとっては十分すぎる文明だった。
「宿…! 壁…! 天井…!」
アリシアが感動したように両手を広げる。
「そこまで感動するほど過酷だったんですね、この旅」
「過酷でしたよ!?」
「主にあなたが近道を選ぶからです」
町に入る前、セリアは門番に頼まれて、荷馬車から落ちて足をひねった旅人を雑に治していた。
「はい、終わり。次」
「あなた、そういうのはちゃんとやるんですね」
「仕事ですからねぇ……」
セリアはあくび混じりに言って、すぐ酒場の看板へ視線を流した。
「で、仕事終わったんで、今日は飲んでいい日です」
「自分ルールが早い」
宿を決め、荷を下ろし、夕食がてら一階の酒場に降りるころには、全員かなり疲れていた。アリシアは最初こそ元気だったが、温かいスープを一杯飲んだあたりで瞼が落ち始めた。
「剣聖様……私、今日はもう、ちゃんとした床で気絶することにします……」
「健康的な就寝宣言ですね」
「おやすみなさい……」
そう言って、アリシアは本当にふらふらと部屋へ引き上げていった。
エルヴィラも葡萄酒を一口だけ口にして、淡々と言う。
「深酒は非合理です。私は休みます」
「全員があなたぐらい自己管理できれば苦労しないんですが」
「そうですね」
「そこ否定しないんだ」
問題は、残った一人だった。セリアが、やたらと上機嫌だったのである。
「今日ぐらいはいいでしょ」
彼女はそう言って、すでに二杯目の酒を空けていた。
「門前で人も治しましたし、湿地では虫にも耐えましたし、私、かなりがんばったほうですよ」
「それは認めます。だからこそ、ここで潰れない程度にしてください」
「うわ、正論」
「営業時代からよく言われました」
「じゃあ聞き流していいやつだ」
「最悪だなその判断」
セリアは肩をすくめて、三杯目を頼んだ。
俺はそこで本気で止めるべきだったのかもしれない。だが、宿代の値切り交渉だの、追加の毛布の手配だの、風呂の順番確認だのをしているうちに、少し席を外した。ほんの少しだ。本当に少しだった。
戻ってきたときには、手遅れだった。
テーブルに突っ伏したセリアが、空の杯を三つ並べたまま、ぐにゃりとこちらを見上げていた。
「タカハシくぅん」
「うわ、崩れた」
普段の気だるい神官の面影が、妙に薄い。目が据わっている。声もふにゃふにゃしている。これはもう、立派な酔っ払いだった。
「部屋まで運びますよ」
「んー……」
「歩けますか」
「歩けるぅ……たぶん」
「たぶんの段階で危険なんですよ」
立たせてみる。三歩で俺の肩に全体重が乗った。
「歩けてないじゃないですか」
「床が揺れてるんですよぉ」
「揺れてるのはあなたです」
仕方なく肩を貸し、二階の部屋まで連れていく。廊下は静かだった。たぶんアリシアもエルヴィラも、もう寝ている。
なんとか部屋まで運び込み、寝台に座らせたところで、ようやく終わった……と思った。
「じゃ、俺は戻りますんで」
「やだ」
即答だった。
「やだ、じゃありません。寝てください」
「やだぁ」
「語尾を柔らかくしても無効です」
次の瞬間、セリアがぐい、と俺の服を掴んだ。
「うわっ」
体勢を崩す。危うく一緒に寝台へ倒れ込むところだった。
「ちょ、離してください」
「やだ」
「さっきからそれしか言ってないですよ」
「タカハシくぅん、あったかい……」
嫌な予感がした。そして、その予感は一秒後に現実になった。セリアが、俺の胸元に顔を埋めた。正確には、胸元から顎にかけての、例のもじゃもじゃ地帯に。
「…………」
「…………」
「もふもふ……」
「やめてください」
やめる気配はなかった。むしろ、さらに深く潜り込んでくる。
「ちょ、待って、待ってください。そこ俺の髭です」
「うん」
「うん、じゃないんですよ」
「あったかい……」
「褒め言葉として最悪なんですが」
引き剥がそうとする。剥がれない。
「セリアさん、離してください。誰かに見られたらまずいです」
「んー……見られなきゃいいんじゃないですかぁ」
「根本の解決になってない」
小声で攻防を続ける。だが、剥がせない。しかも、剥がそうとするたび、セリアの腕に力が入る。
「……ほんと、寄りかかるの久しぶり」
髭に埋もれたまま、セリアがぽつりと言った。少しだけ、手が止まった。
「何か言いました?」
「べつにぃ……」
「いや、今なんか大事そうなことを」
「神官って、しんどいとか言いにくいんですよぉ」
声が、さっきまでより少しだけ低くなった。酔っているが、全部が全部ふざけているわけでもないらしい。
「回復役が先にへばったら終わりじゃないですか」
「それは……そうですね」
「だから、わりと、ちゃんとしてるんです。見えないかもですけど」
「見えないですね」
「ひど」
「誰かに寄りかかるの、久しぶりなんでぇ……今日ぐらいは、いいでしょ」
「今日ぐらいは、を今日すでに何回聞いたと思ってるんですか」
「商人みたい」
「元営業マンです」
セリアが小さく笑った。そのまま、また顔を髭に埋め直す。
「タカハシくんって、聞くのうまいよね」
「クレーム処理で鍛えられました」
「それ、褒めてないなぁ」
「褒められた経験もあまりありません」
もう一度、やんわり引き剥がそうと試みる。
「セリアさん、せめて横になってください。俺は床でいいので」
「やだ」
「即答」
「これ、あったかいし」
「俺の髭を毛布扱いしないでください」
「毛布より、ちょっとちゃんとしてる……」
「評価軸が雑すぎる」
結局、その夜の俺は、寝台の端で半分座ったような姿勢のまま固定された。顔を髭に埋めて寝息を立てるセリアの腕が胴に回ったきり、身動きが取れないまま朝を待った。
剃れないうえに、眠れない。なんだこの異世界。俺の顎に対してだけ当たりが強すぎる。
◇◇◇
翌朝。
「セリアさーん、朝ですよー!」
元気な声とともに、扉が開いた。アリシアだった。
そして、固まった。開いた扉の向こうで、彼女はぴたりと停止した。
一秒。
二秒。
三秒。
理解が追いついていない顔が、次の瞬間、一気に真っ赤になる。
「す、すみません! お邪魔しました!!」
ばたんっ!
「違います!!」
俺は反射的に叫んだ。
「そういうのではないです、これは!事故です! 事故!」
だが扉はすでに閉まっていた。
最悪だ。
しかもその叫びでセリアが起きた。
「ん……」
ゆっくり顔を上げ、ぼんやりと瞬きをする。そして、俺と目が合った。
「……おはようございます」
「おはようございます、じゃないんですよ」
「頭いたい……」
「でしょうね」
「水、ほしいです」
「人を抱き枕にした人間の第一声としてどうなんですか」
「抱き枕……?」
そこでセリアは一瞬だけ視線を泳がせた。ほんの少しだけ、耳が赤い。だが次の瞬間には、いつもの気だるい顔に戻っていた。
「……別に、何もなかったですけど?」
「その言い方やめてください!」
◇◇◇
朝食の席は、妙な空気だった。
アリシアがそわそわしている。パンをちぎる手元が落ち着かない。ちら、ちら、と俺とセリアを交互に見てくる。
「アリシアさん」
「は、はいっ!」
「違いますからね」
「な、何がですか!?」
「その反応で何も伝わってないことは逆にわかりました」
セリアは湯気の立つスープを飲みながら、しれっとした顔で言う。
「別に、何もなかったですけど」
「だからその言い方!」
「タカハシくん、朝から元気ですねえ」
「誰のせいですか!」
アリシアはますます顔を赤くした。
「わ、私は、その、大人のことはよくわかりませんけど……」
「大人のことじゃないんです! 酔っ払いが髭に埋まって寝ただけです!」
「その説明もだいぶひどいですね」
「ひどいのは現象のほうです!」
エルヴィラだけが、一人だけ状況を掴めていない顔をしていた。
「……何の話です?」
「そこだけ平和ですね!?」
セリアはスープの器を置いて、俺を見た。
「でも、あったかかったですよ」
「蒸し返さないでください」
「安眠できました」
「俺はできてないんですよ」
アリシアが椅子の上で小さくなる。エルヴィラは本当にわからないまま首をかしげている。セリアは悪びれもなくパンをちぎっている。
その横で、俺は冷めかけた茶を一気に飲み干した。
恩髭。防寒髭。防虫髭。そして今度は、抱き枕髭。
肩書きが増えるたびに、剃るハードルだけが上がっていく。営業マンとして断言する。これは非常に質の悪い囲い込みだ。




