第十五話 湿地帯では、髭が虫除けになるらしい
山を越えた翌日。
寒さ地獄を抜けたと思ったら、今度は湿気地獄だった。
「なんでだよ……」
思わず声に出た。
街道は緩やかに下り、その先一帯がまるごと沼地になっていた。足元はぬかるみ、空気は重く、草は無駄に青い。しかも水辺の上で、小さな羽虫の群れがきらきらと舞っている。きれい、ではない。最悪、である。顔の横で、ぶぅぅん、と嫌な音がした。
「うわっ」
反射的に振り払う。が、払った先からまた来る。鼻先、耳、首筋。とにかく鬱陶しい。
「タカハシさん! 敵です!」
アリシアが剣を抜いた。
「違います! そこまで大仰に扱う相手じゃないですけど、剣でどうにかなる相手でもありません!」
「えっ、斬れなくはないと思います!」
「一匹ずつ斬ってたら日が暮れます!」
その横で、セリアが本気で嫌そうな顔をしていた。
「うわ、無理……。こういうの、ほんと無理……」
「珍しく共感しかないです」
「口の中入った……最悪……」
「わかります」
アリシアは腕をぶんぶん振り回して虫を追い払おうとしている。効果はない。むしろ虫が散って、こっちに来る。業務妨害である。
ところが、その中で一人だけ、平然としている人物がいた。
エルヴィラだ。
虫が寄ってこない。正確には、近づいてもふっと離れる。耳の尖った横顔は相変わらず涼しげで、湿地帯の不快指数を一人だけ無視しているようだった。
「……なんであなただけ無傷なんですか」
「対策をしているからです」
「その当然みたいな顔で言うんですね」
エルヴィラは首筋に指をやった。透明な油を薄く塗っている。
「エルフの秘薬です。湿地性の羽虫が嫌う香りを纏っています」
「分けて「「ください」」」
俺、セリア、アリシアの声がきれいに揃った。
エルヴィラは淡々と首を振る。
「量に限りがあります。これは原液です。希釈もせずに全員へ使えば、今夜までもちません」
「今すぐの快適を優先してくださいよ!」
「非合理です」
「賢者の言葉が冷たい!」
結局、その日は虫にまとわりつかれながら、湿地の浅い道を進む羽目になった。アリシアは途中から「もう勇者やめたいです!」と叫び、セリアは「酒で消毒したい……」と半泣きだった。俺は俺で、髭の中にまで小虫が入ってきそうで気が気じゃなかった。
◇◇◇
日が落ちるころ、俺たちは比較的乾いた小高い場所に野営を張った。火を起こし、煙で多少虫を散らしながら、ようやく一息つく。
「今日ほど文明の虫除けスプレーを恋しく思った日はありません」
「文明って、たまにすごい言葉を使いますね、あなたは」
「今日は説明してる気力がありません」
俺は荷袋から小瓶を出した。ドルグの集落から持ってきた髭油だ。最近は剃れない代わりに、せめて絡まりだけでも抑えようと使っている。
蓋を開けた瞬間、横からすっと気配が寄った。
「……その香り」
エルヴィラだった。
「少し、似ていますね」
「何がです?」
「私の秘薬に使っている薬草と、系統が近い香りです」
俺は瓶を見た。エルヴィラは奪うことはせず、かなり近い距離まで顔を寄せて匂いを確かめる。
「ドルグさんにもらった髭油です。集落の山で採れる薬草が入ってるとか」
「見せてください」
「急に圧が強い」
エルヴィラは小瓶を受け取り、慎重に匂いを嗅いだ。
「間違いありません。近縁種です。こちらは保香性が高く、私のものは忌避性が高い」
「つまり?」
「混ぜれば、より長時間持続する虫除けを作れる可能性があります」
その言葉に、セリアがぴくりと反応した。
「それ、ほんと?」
毛布にくるまったまま、ものすごく真剣な目をしている。
「ほんとなら今すぐお願いします。酒飲んでるときに虫が寄るの、心の底から腹立つから」
「用途が切実ですね」
「切実だよ?」
「ゼロから作るより、近い基材を寄せた方が早いですね」
「ええ」
「手持ちの材料で試します?」
「……話が早いですね」
「現場はスピードです」
「ですが、配合比率を雑にすると失敗します」
「まず少量試作です」
「同感です」
初めて会話が噛み合った気がした。
◇◇◇
簡易の調合台代わりに、平たい石を並べる。
材料は、エルヴィラの秘薬の残り、俺の髭油、ぬめり葉の汁、それから乾燥させた薬草少々。アリシアは「何か手伝うことありますか!」と前のめりだったが、調合中の勢いある善意は事故のもとである。
「今日は見ていてください」
「見守りですね!」
「そうです。できれば静かに」
「がんばります!」
「不安しかない」
エルヴィラは小瓶の中身を一滴ずつ落としながら、低い声で言った。
「髭油を三。秘薬を一。ぬめり葉は半滴」
「半滴ってどうやるんですか」
「気合いです」
「賢者の言葉とは思えないな」
第一試作は、失敗だった。匂いは強い。虫も確かに寄ってこない。だが、塗った瞬間に肌がべたつき、さらに妙に甘ったるい香りが残った。
セリアが顔をしかめる。
「だめ。酒がまずくなる」
「評価基準が一貫してますね」
「生活に直結してるからね」
エルヴィラは真顔で頷いた。
「失敗です。忌避性はありますが、持続させる油分が多すぎます」
「あと匂いが重いです。湿地でこの甘さはきつい」
「同意します」
第二試作。今度は髭油を減らし、ぬめり葉を増やし、乾燥薬草を少量すり潰して混ぜる。
「試します」
俺はそう言って、自分の腕に塗った。
「無茶をしますね」
「現場検証です」
「……嫌いではありません」
何がだ。
しばらく待つ。さっきまで腕の周りをうろついていた羽虫が、すっと距離を取った。
「おっ」
「来ませんね」
「来ませんね!」
アリシアが嬉しそうに身を乗り出す。だがエルヴィラの視線は、俺の腕ではなく、小瓶の中身に向いていた。
「問題は持続性です。油膜が薄ければ、すぐ飛びます」
「じゃあ、保香性の高いところに塗ればいい」
「例えば?」
「……髭とか」
言ってから、少し嫌な予感がした。案の定、エルヴィラの目がすっと細くなった。
「なるほど」
「待ってください、その“なるほど”は嫌な予感しかしないんですが」
「毛量があり、油が馴染み、熱もこもる。香りを保持する媒体としては理想的です」
「媒体って言いました?」
「言いました」
俺はしばらく黙った。黙ったが、周囲の虫は待ってくれない。
「……少しだけですよ」
「もちろんです」
「今ちょっと声が弾みましたよね?」
「気のせいです」
エルヴィラは指先に試作品を取った。
「失礼します」
「その一言で済ませる距離じゃないんですが」
ひんやりした指先が、髭の表面に油をなじませていく。耳の下から顎先まで、毛流れに沿って丁寧に。妙に手つきが慣れているのが腹立たしい。
「……どうです」
「塗られてる側に聞くんですか」
「主観も必要です」
「不本意です」
しばらくすると、驚くほど虫が寄ってこなくなった。首筋も、耳元も、静かだ。アリシアが目を丸くする。
「すごいです! 剣聖様の周りだけ、空気が違います!」
「剣聖様じゃなくて発生源ですね、これ」
「非常に効果的です」
エルヴィラの声が少しだけ早くなる。
「油が毛に絡み、香りが飛ばない。しかも体温でわずかに温められ、拡散が安定している。これは……」
「これは?」
「……すごいです」
「語彙が減りましたね、賢者」
エルヴィラは、じっと俺の顎を見つめた。
「もっと詳しく研究させてください」
「嫌です」
「触っても?」
「今の流れでよく一段階進めましたね?」
「学術的興味です」
「最後ちょっと本音が漏れてましたよね?」
だが効果は本物だった。
試作品を希釈して、首筋や手首に配ると、アリシアもセリアも明らかに楽そうになる。
「助かります! これで虫との戦いに勝てます!」
「戦わなくていいんですよ」
「最高……。酒がちゃんと酒の味する……」
「評価基準がぶれないな、この神官」
ただし、である。
俺の周囲だけは、明らかに虫が薄い。アリシアが自然と俺の横に来た。セリアも毛布を引きずって近寄ってくる。しまいにはエルヴィラまで一歩近い。
「なんですか」
「タカハシさんの近くが一番快適です!」
「その髭、歩く虫除けですねえ、さすが恩髭!」
「言い方」
「移動式防虫結界……」
「急に装備欄に入れないでください」
◇◇◇
その夜。
全員が寝静まったのを確認して、俺はそっと革箱を開けた。
浄鉄のカミソリが、小さく月光を返す。
今日こそいける。防寒だの防虫だの、役に立つのはわかった。わかったけど、それはそれ、これはこれだ。
俺が刃に指をかけたとき。
「その髭は今、パーティーの防虫を担っています」
背後から、声がした。
「うわっ!?」
振り向くと、エルヴィラが立っていた。無音すぎる。虫より気配がない。
「起きてたんですか」
「ええ」
短い返事だった。昼間の弾んだ声とは、明らかに違う。
「見張り?」
「観察です」
エルヴィラは、俺のカミソリへ視線を落としたまま動かなかった。しばらく、火の爆ぜる音だけが間を埋めた。
「……湿地帯を抜けるまで、維持していただきます」
「業務命令みたいに言わないでください」
「合理的判断です」
また沈黙が挟まる。
「それに」
彼女は一拍おいてから、ようやく続けた。
「非常に、貴重な観察対象です」
「ほら本音混ざった!」
俺の叫びは、虫一匹いない静かな夜にむなしく吸い込まれた。
こうして俺の髭には、新たに「虫除け髭」という肩書きが増えた。
恩髭。防寒髭。虫除け髭。
肩書きだけが増えていく。肝心の毛は、一本たりとも減らない。
……営業マンとして言わせてもらう。
この商品、機能が増えるたびに解約しづらくなるの、本当に質が悪い。




