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髭がそりたいだけなのに〜聖剣はカミソリだった!?〜  作者: 藤紫


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15/28

第十五話 湿地帯では、髭が虫除けになるらしい

 山を越えた翌日。

 寒さ地獄を抜けたと思ったら、今度は湿気地獄だった。


「なんでだよ……」


 思わず声に出た。

 街道は緩やかに下り、その先一帯がまるごと沼地になっていた。足元はぬかるみ、空気は重く、草は無駄に青い。しかも水辺の上で、小さな羽虫の群れがきらきらと舞っている。きれい、ではない。最悪、である。顔の横で、ぶぅぅん、と嫌な音がした。


「うわっ」


 反射的に振り払う。が、払った先からまた来る。鼻先、耳、首筋。とにかく鬱陶しい。


「タカハシさん! 敵です!」


 アリシアが剣を抜いた。


「違います! そこまで大仰に扱う相手じゃないですけど、剣でどうにかなる相手でもありません!」

 

「えっ、斬れなくはないと思います!」

 

「一匹ずつ斬ってたら日が暮れます!」


 その横で、セリアが本気で嫌そうな顔をしていた。


「うわ、無理……。こういうの、ほんと無理……」

 

「珍しく共感しかないです」

 

「口の中入った……最悪……」

 

「わかります」


 アリシアは腕をぶんぶん振り回して虫を追い払おうとしている。効果はない。むしろ虫が散って、こっちに来る。業務妨害である。

 ところが、その中で一人だけ、平然としている人物がいた。


 エルヴィラだ。


 虫が寄ってこない。正確には、近づいてもふっと離れる。耳の尖った横顔は相変わらず涼しげで、湿地帯の不快指数を一人だけ無視しているようだった。


「……なんであなただけ無傷なんですか」

 

「対策をしているからです」

 

「その当然みたいな顔で言うんですね」


エルヴィラは首筋に指をやった。透明な油を薄く塗っている。


「エルフの秘薬です。湿地性の羽虫が嫌う香りを纏っています」

 

「分けて「「ください」」」


 俺、セリア、アリシアの声がきれいに揃った。

 エルヴィラは淡々と首を振る。


「量に限りがあります。これは原液です。希釈もせずに全員へ使えば、今夜までもちません」

 

「今すぐの快適を優先してくださいよ!」

 

「非合理です」

 

「賢者の言葉が冷たい!」


 結局、その日は虫にまとわりつかれながら、湿地の浅い道を進む羽目になった。アリシアは途中から「もう勇者やめたいです!」と叫び、セリアは「酒で消毒したい……」と半泣きだった。俺は俺で、髭の中にまで小虫が入ってきそうで気が気じゃなかった。


◇◇◇


 日が落ちるころ、俺たちは比較的乾いた小高い場所に野営を張った。火を起こし、煙で多少虫を散らしながら、ようやく一息つく。


「今日ほど文明の虫除けスプレーを恋しく思った日はありません」

 

「文明って、たまにすごい言葉を使いますね、あなたは」

 

「今日は説明してる気力がありません」


 俺は荷袋から小瓶を出した。ドルグの集落から持ってきた髭油だ。最近は剃れない代わりに、せめて絡まりだけでも抑えようと使っている。


 蓋を開けた瞬間、横からすっと気配が寄った。


「……その香り」


エルヴィラだった。


「少し、似ていますね」

 

「何がです?」

 

「私の秘薬に使っている薬草と、系統が近い香りです」


 俺は瓶を見た。エルヴィラは奪うことはせず、かなり近い距離まで顔を寄せて匂いを確かめる。


「ドルグさんにもらった髭油です。集落の山で採れる薬草が入ってるとか」

 

「見せてください」

 

「急に圧が強い」


 エルヴィラは小瓶を受け取り、慎重に匂いを嗅いだ。


「間違いありません。近縁種です。こちらは保香性が高く、私のものは忌避性が高い」

 

「つまり?」

 

「混ぜれば、より長時間持続する虫除けを作れる可能性があります」


 その言葉に、セリアがぴくりと反応した。


「それ、ほんと?」


 毛布にくるまったまま、ものすごく真剣な目をしている。


「ほんとなら今すぐお願いします。酒飲んでるときに虫が寄るの、心の底から腹立つから」

 

「用途が切実ですね」

 

「切実だよ?」


「ゼロから作るより、近い基材を寄せた方が早いですね」

 

「ええ」

 

「手持ちの材料で試します?」

 

「……話が早いですね」

 

「現場はスピードです」


「ですが、配合比率を雑にすると失敗します」

 

「まず少量試作です」

 

「同感です」


初めて会話が噛み合った気がした。


◇◇◇


 簡易の調合台代わりに、平たい石を並べる。

 材料は、エルヴィラの秘薬の残り、俺の髭油、ぬめり葉の汁、それから乾燥させた薬草少々。アリシアは「何か手伝うことありますか!」と前のめりだったが、調合中の勢いある善意は事故のもとである。


「今日は見ていてください」

 

「見守りですね!」

 

「そうです。できれば静かに」

 

「がんばります!」

 

「不安しかない」


エルヴィラは小瓶の中身を一滴ずつ落としながら、低い声で言った。


「髭油を三。秘薬を一。ぬめり葉は半滴」

 

「半滴ってどうやるんですか」

 

「気合いです」

 

「賢者の言葉とは思えないな」


 第一試作は、失敗だった。匂いは強い。虫も確かに寄ってこない。だが、塗った瞬間に肌がべたつき、さらに妙に甘ったるい香りが残った。


 セリアが顔をしかめる。


「だめ。酒がまずくなる」

 

「評価基準が一貫してますね」

 

「生活に直結してるからね」


エルヴィラは真顔で頷いた。


「失敗です。忌避性はありますが、持続させる油分が多すぎます」

 

「あと匂いが重いです。湿地でこの甘さはきつい」

 

「同意します」


 第二試作。今度は髭油を減らし、ぬめり葉を増やし、乾燥薬草を少量すり潰して混ぜる。


「試します」


俺はそう言って、自分の腕に塗った。


「無茶をしますね」

 

「現場検証です」

 

「……嫌いではありません」


何がだ。


 しばらく待つ。さっきまで腕の周りをうろついていた羽虫が、すっと距離を取った。


「おっ」

 

「来ませんね」

 

「来ませんね!」


アリシアが嬉しそうに身を乗り出す。だがエルヴィラの視線は、俺の腕ではなく、小瓶の中身に向いていた。


「問題は持続性です。油膜が薄ければ、すぐ飛びます」

 

「じゃあ、保香性の高いところに塗ればいい」

 

「例えば?」

 

「……髭とか」


 言ってから、少し嫌な予感がした。案の定、エルヴィラの目がすっと細くなった。


「なるほど」

 

「待ってください、その“なるほど”は嫌な予感しかしないんですが」

 

「毛量があり、油が馴染み、熱もこもる。香りを保持する媒体としては理想的です」

 

「媒体って言いました?」

 

「言いました」

 

 俺はしばらく黙った。黙ったが、周囲の虫は待ってくれない。

 

「……少しだけですよ」

 

「もちろんです」

 

「今ちょっと声が弾みましたよね?」

 

「気のせいです」


 エルヴィラは指先に試作品を取った。


「失礼します」

 

「その一言で済ませる距離じゃないんですが」


 ひんやりした指先が、髭の表面に油をなじませていく。耳の下から顎先まで、毛流れに沿って丁寧に。妙に手つきが慣れているのが腹立たしい。


「……どうです」

 

「塗られてる側に聞くんですか」

 

「主観も必要です」

 

「不本意です」


 しばらくすると、驚くほど虫が寄ってこなくなった。首筋も、耳元も、静かだ。アリシアが目を丸くする。


「すごいです! 剣聖様の周りだけ、空気が違います!」

 

「剣聖様じゃなくて発生源ですね、これ」

 

「非常に効果的です」


エルヴィラの声が少しだけ早くなる。


「油が毛に絡み、香りが飛ばない。しかも体温でわずかに温められ、拡散が安定している。これは……」

 

「これは?」

 

「……すごいです」

 

「語彙が減りましたね、賢者」


エルヴィラは、じっと俺の顎を見つめた。


「もっと詳しく研究させてください」

 

「嫌です」

 

「触っても?」

 

「今の流れでよく一段階進めましたね?」

 

「学術的興味です」

 

「最後ちょっと本音が漏れてましたよね?」


 だが効果は本物だった。

 試作品を希釈して、首筋や手首に配ると、アリシアもセリアも明らかに楽そうになる。


「助かります! これで虫との戦いに勝てます!」

 

「戦わなくていいんですよ」

 

「最高……。酒がちゃんと酒の味する……」

 

「評価基準がぶれないな、この神官」


 ただし、である。

 俺の周囲だけは、明らかに虫が薄い。アリシアが自然と俺の横に来た。セリアも毛布を引きずって近寄ってくる。しまいにはエルヴィラまで一歩近い。


「なんですか」

 

「タカハシさんの近くが一番快適です!」

 

「その髭、歩く虫除けですねえ、さすが恩髭!」

 

「言い方」

 

「移動式防虫結界……」

 

「急に装備欄に入れないでください」


◇◇◇


その夜。

全員が寝静まったのを確認して、俺はそっと革箱を開けた。

浄鉄のカミソリが、小さく月光を返す。

今日こそいける。防寒だの防虫だの、役に立つのはわかった。わかったけど、それはそれ、これはこれだ。

俺が刃に指をかけたとき。


「その髭は今、パーティーの防虫を担っています」


 背後から、声がした。


「うわっ!?」


 振り向くと、エルヴィラが立っていた。無音すぎる。虫より気配がない。


「起きてたんですか」

 

「ええ」


 短い返事だった。昼間の弾んだ声とは、明らかに違う。


「見張り?」

 

「観察です」


 エルヴィラは、俺のカミソリへ視線を落としたまま動かなかった。しばらく、火の爆ぜる音だけが間を埋めた。


「……湿地帯を抜けるまで、維持していただきます」

 

「業務命令みたいに言わないでください」

 

「合理的判断です」


 また沈黙が挟まる。


「それに」


 彼女は一拍おいてから、ようやく続けた。


「非常に、貴重な観察対象です」

 

「ほら本音混ざった!」


 俺の叫びは、虫一匹いない静かな夜にむなしく吸い込まれた。

 こうして俺の髭には、新たに「虫除け髭」という肩書きが増えた。

 恩髭。防寒髭。虫除け髭。


 肩書きだけが増えていく。肝心の毛は、一本たりとも減らない。

 ……営業マンとして言わせてもらう。


この商品、機能が増えるたびに解約しづらくなるの、本当に質が悪い。


 

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