第十四話 凍える山で、髭が役に立つなんて聞いてない
翌朝。
焚き火の残り火に手をかざしながら、俺はまず顎を触った。
当然ながら、まだある。
昨日も剃れなかった。今日も生えている。いや、生えているどころか、旅の空気を吸ってますます元気だ。朝露を吸った髭先が、ひどくしっとりしている。最悪である。
「剣聖様! 進路なのですが!」
元気いっぱいの声が飛んできた。
アリシアだ。朝から声量が昼の市場みたいに大きい。どういう肺活量をしているんだ、この勇者。
「その呼び方、そろそろやめません?」
「では神剃り様で!」
「悪化してる!」
アリシアは気にした様子もなく、地図を俺の前に広げた。
「見てください。ここから街道をぐるっと回ると三日。でも、この山を越えれば一日半です!」
「近道はですね、大抵あとで高くつくんですよ」
「でも困っている人がいるなら、一日でも早いほうがいいじゃないですか!」
まっすぐだ。まっすぐすぎて、たまに壁を突き抜けるタイプだ。
横からエルヴィラが地図をのぞき込み、静かに言った。
「理論上は可能です。風が強く、天候の変化も激しいですが」
「遭難フラグを理論で補強しないでください」
毛布にくるまったままのセリアが、片手だけ上げる。
「寒いのやだ……」
「珍しく同意見です」
「でも下の宿場に泊まると、お酒代かかるんだよね……」
「即撤回します」
アリシアはぐっと拳を握った。
「大丈夫です! 私が先頭で道を切り開きます!」
「その根拠のない大丈夫が一番怖いんですが」
しかし多数決ですらなかった。勇者が行くと言った。賢者が計算上は行けると言った。神官は酒代で折れた。結果、俺たちは雪の残る山道を登ることになった。
営業会議なら止めてる。確実に止めてる。だが今の俺は営業ではなく、泡も立てられないまま髭を連れて旅するドワーフ家政夫だ。詰んでいる。
*
登り始めて二刻。
空気が変わった。
冷たい。というか痛い。風が皮膚を刺してくる。鼻の奥がつんとし、息を吐くたび白く曇った。
「見てください、剣聖様! 雪です!」
「見てます。むしろ見たくなかったです」
アリシアは前を歩きながら、やたら元気だった。雪を踏む音まで弾んでいる。対して俺はといえば、顎に張りつく湿気と冷気のダブルパンチで、だいぶ機嫌が悪い。
髭にうっすら霜がつき始めていた。
「……最悪だ」
「どうかしましたか?」
「どうもこうもありません。髭が冷却フィルターみたいになってるんですが」
「防寒になっているのでは?」
「なる前に不快感が勝つんですよ」
エルヴィラは俺の顎を見つめた。
「興味深いです」
「観察対象みたいに言わないでください」
「もう観察対象です」
「知ってました」
そのときだった。
先を歩いていたアリシアが、ぴたりと止まった。
「あっ!」
彼女の視線の先。少し離れた斜面の下に、半分雪に埋もれた荷車が見えた。布の端のようなものもある。人かもしれない。
「人が倒れてます!」
「待ってください、距離と地盤を確認して……」
「確認してる間に凍えたら大変です!」
言うが早いか、アリシアは飛び出した。
「うおっ、ちょ、待っ……」
俺が止めるより早く、雪面がずるりと鳴った。
嫌な音だと思った瞬間には、足元が崩れていた。
「アリシアさん!」
「きゃっ――!」
斜面の雪が流れる。大雪崩というほどではない。だが、人間二、三人をまとめて転ばせるには十分だ。俺は足を取られ、そのまま横滑りのように雪面を流された。
「うわあああっ! だから近道は高くつくって言ったんだよ!」
どさり、と雪のたまり場に突っ込んだ。
「痛っ……!」
幸い、岩か木に激突したわけではないらしい。だが全身が冷たい。というか寒い。いや、寒いを通り越して普通に業務妨害である。
「アリシアさん!」
少し離れた場所で、赤いマントが動いた。
「だ、大丈夫です……!」
声はする。だが勢いはない。さっきまでの元気な音圧が消えていた。
見上げると、上の道は白い風にかき消されている。エルヴィラたちの姿も見えない。
視界は悪い。風も強い。止まるのが一番まずい状況だ。
「立てますか」
「はい……!」
「じゃあ立ってください。止まると終わります」
「は、はい!」
アリシアは立ち上がろうとして、少しよろけた。さっきの勢いが嘘のようだ。
俺は舌打ちしたくなるのをこらえ、周囲を見回す。少し先に岩陰があった。風を避けるならあそこだ。
「まずあそこへ。話はそのあとです」
「でも、荷車の人が……」
「今のあなたがさらに倒れたら救助対象が増えるだけです! 優先順位!」
岩陰までたどり着いたところで、アリシアが肩で息をした。
「……すみません。私、また先に走りました」
珍しく、声が小さかった。
「困ってる人がいると思ったら、体が勝手に……」
「先に走るなとは言いません。ただ、先に走る人ほど後ろを置いていくな、です」
「……はい」
風がさらに強く吹き込んだ。アリシアが小さく肩を震わせる。唇の色が薄い。呼吸のたびに、白い息が余計に長く尾を引いた。
俺は自分の顎に触れた。
外側の髭先には霜。だが内側、口元の近くはまだ冷えていない。
「……は?待てよ」
次の瞬間には、マントの端で自分の胸元の髭をまとめ、アリシアの口元へ寄せていた。
「アリシアさん、こっち向いてください」
「え?」
「口元、俺の髭で我慢してください」
「俺の……?」
「今さら確認しないでください!」
距離が近い。絵面が嫌だ。嫌すぎる。だが言っている場合じゃない。
「風上に背を向けて、顔をこっちへ。変にしゃべらない」
「は、はい」
数拍。アリシアの肩の震えが、少しだけましになった。
「……どうです」
「……あったかいです」
「最悪だ」
「えっ」
「こっちの話です」
アリシアは俺の髭越しに、くぐもった声で言った。
「剣聖様の髭、思ったより……ちゃんと整ってます」
「命の瀬戸際で出る感想じゃないでしょう」
それでも、彼女の声は少し戻っていた。
白い風の向こうに、淡い光が見えたのはそのすぐあとだった。
「あれ……! エルヴィラさんの灯りです!」
「よし。今度はちゃんと合わせて動きますよ」
「はい。今度はちゃんと、合わせます」
その言葉どおり、アリシアは今度は勝手に飛び出さなかった。斜面を下りる俺に手を貸し、足場の悪いところでは先に雪を踏み固め、振り返って確認する。さっきまでの勢いだけの勇者ではない。雑だが、ちゃんと学習するらしい。
それはそれで、少しだけ好印象だった。だからといって髭を許す気はないが。
◇◇◇
「見つけました」
光の主はエルヴィラだった。杖の先に浮かんだ淡い燐光が、吹雪の中でもよく目立つ。隣ではセリアが毛布にくるまったまま欠伸をしていた。
「無事でしたか。……なるほど」
エルヴィラの視線が、俺の顎とアリシアの口元を往復した。
「顎周辺の霜の付着量に対して、熱損失が少ない。ドワーフの髭には寒冷地適応器官としての側面が――」
「第一声が分析ですか」
「便利だねえ、その顎」
「器具みたいに言わないでください」
アリシアが一歩前に出て、ぴしっと背筋を伸ばした。
「タカハシさんに助けてもらいました!」
「声が大きい」
「私、先走ってしまって……でも、タカハシさんの髭が私の命を――」
「そこも大きい!」
セリアが目を細めた。
「へえ。命を救う髭か。じゃあ切っちゃだめじゃない?」
「なんでそうなるんですか」
「縁起物っぽいし」
「俺の顎を神棚扱いしないでください」
結局、荷車のほうは人影ではなく、風にあおられた荷布だった。助けるべき遭難者はいなかった。つまり今回は完全に勇者の早とちりである。
アリシアはそれを知って、さらにしおしおになった。
「すみません……」
「次から確認」
「はい……」
「あと単独行動禁止」
「はい!」
「返事だけはいいんですよね、本当に」
その夜、山小屋跡の風下で再び野営になった。
俺は凍ってぱりぱりになった髭先を指で払う。白い粉みたいな霜が落ちた。
命を救った。役に立った。わかった。
わかったけど、それはそれだ。
「……今日はさすがに剃っていいだろ」
革箱を開け、浄鉄のカミソリを取り出す。
すると、背後からばたばたと駆け寄る音がした。
「だめです!!」
「うわっ!?」
アリシアが真顔で俺の腕を掴んでいた。
「その髭は今日、私の命を守った恩髭です! 切ってはいけません!」
「初めて聞く単語なんですが!?」
「大事にしてください!」
「大事にしたくないんですよ、こっちは!」
「でも、すごくあったかかったんです!」
「褒め言葉として最悪です!」
エルヴィラが横から静かに頷く。
「防寒性能の継続観察は必要ですね」
「賢者まで乗るな!」
セリアは毛布にくるまったまま笑った。
「諦めなよ、恩髭様」
「新しい呼び名を増やさないでください!」
その夜も、俺の顎は無駄にぬくもりだけを保ったまま、一本たりとも減らなかった。




