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【第3話:前世の名前】

「おーい、和樹!」

居酒屋の喧騒を割ってその名前が聞こえた瞬間、

俺の身体は本能的にびくりと強張った。


振り返ると、改札の向こうから、

少し見ない間に随分と父親らしい体つきになった佐藤卓也が、

大きく手を振って歩いてくるところだった。


「和樹、久しぶり! 最後に会ったの、

いつだっけ。五、六年ぶりか?」


「……あ、あぁ。卓也、久しぶり」


自分の喉から出た声が、

妙に上擦っているのが分かった。


ここ数年、俺の耳に届く名前は

「シオン」だけだった。


女性をとろけさせるための、

耳触りの良い、偽物の響き。


それがあまりに日常になりすぎていて、

自分の本名である「和樹」と呼ばれた瞬間、

まるで前世の名前を突きつけられたような、

奇妙な眩暈めまいを覚えた。


俺はまだ、表の世界に名前を残していたのだろうか。


駅前の、なんてことのない赤提灯の居酒屋。

ビールジョッキを乾杯させてすぐ、卓也が

「あ、そうだ。これ、一応渡しとくわ」と、

財布から一枚のカードを取り出した。


白地に、カチッとしたフォントで印刷された名刺。

そこには、有名ではないが

手堅い中堅企業のロゴとともに、

はっきりとこう書かれていた。


『営業部 第一課 係長 佐藤卓也』


「いやぁ、今月から役職付きになっちゃってさ。

手当は少し増えたけど、部下の育成とかマジで面倒くさくてさ」


卓也は「参るよ」と頭を掻きながら、

どこか誇らしげに笑った。


俺はその名刺の「係長」という二文字から、

しばらく目を逸らすことができなかった。


三十代前半。同世代の男たちは、

こうして社会の中に自分の足場を固め、

泥臭くも「持続可能なキャリア」を一段ずつ登っている。


「和樹は、今は何だっけ? 前に夜の仕事って言ってたよな」


「……うん。

まぁ、知人のバーの雇われ店長みたいな。

適当にやってるよ」



俺はいつもの嘘を吐き、

冷えたビールを胃の中に流し込んだ。


愛花からむしり取った金や、

薫からの売上。


瞬間的な月収だけで言えば、

おそらく俺のほうが卓也より遥かに上だろう。


だが、俺の手元にある金には、

社会的な信用も、

未来への約束も一切ない。


もし明日、年齢を理由に店をクビになれば、

俺の履歴書は「三十代・職歴なし」のただの紙切れになる。


名刺一枚すら、俺は持っていない。


「あ、見てよ。うちの娘、この春から幼稚園でさ」


卓也が愛おしそうにスマホの画面を見せてきた。

そこには、ピンク色のスモックを着て、

恥ずかしそうに笑う小さな女の子の写真があった。


「毎朝大変なんだよ。

これから住宅ローンも始まるし、

俺、死ぬまで会社に骨埋める覚悟だわ」


卓也の口から出るのは、

社会のレールの上を真っ当に走っている人間だけの、

贅沢で温かい愚痴だった。


家族、


家、


役職、


未来。



彼が語るそれらの言葉は、

すべて俺のいる薄暗い世界には存在しない「本物の現実」だった。



「和樹はまだ結婚しないの?

お前、昔からモテたのになぁ」


悪気のない、純粋な友人としての問いかけが、

俺の胸に鋭いナイフとなって突き刺さる。


毎日、何人もの女の身体を抱き、愛の言葉を囁いている。


だが、現実の俺の部屋には誰もいない。

女の本音もエゴも、金で買われる愛情の裏側も

知りすぎてしまった俺には、

もう「普通の結婚」なんて、おとぎ話のように遠いものだった。


「はは、俺はまだ、身を固めるなんて先の話だよ」


引きつった笑顔を作る。

その瞬間、自分が今、

「シオンの作り笑い」をしていることに気づいて、

背筋が寒くなった。


地元の親友の前でさえ、

俺は素顔の戻し方を忘れてしまっている。


「じゃあな和樹、お互い三十代、身体に気をつけて頑張ろうぜ!」


二時間後、卓也はそう言って、

終電の改札へと消えていった。


彼はこれから、妻と娘の待つ我が家へ帰る。


一人、居酒屋の前に残された俺のポケットで、

営業用のスマホが「ブーッ」と冷たく震えた。


画面を見ると、案の定、愛花からの執念深いLINEの連打。 そして、その下にもう一件、別の通知が入っていた。

『美緒:シオン、今度いつ会える? あなたにしか話せないことがあるの』

俺はコートの襟を立て、夜の街へと歩き出した。 本名で呼ばれる世界から、俺は完全に弾き出されてしまった。もう二度と、あっち側のまともな光の下には戻れない。

暗い深海のような夜の街だけが、今の俺の居場所だった。


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