【第4話:生殺しの檻】
「シオンがいてくれたから、
私、今の仕事頑張れてるんだよ」
都内の夜景が一望できるレストランのシートで、
美緒は愛おしそうに俺を見つめていた。
その瞳には、かつての愛花が宿していたような
ドロドロとした狂気はない。
ただ純粋に、運命の恋人を
信じ切っているかのような、透明な熱だけがある。
「俺もだよ、美緒。美緒と会う時間だけが、俺の本当の癒やしだから」
俺はグラスを傾けながら、
息を吸うように優しい嘘を吐き出す。
愛花の件で手痛い失敗をしてから、
俺は営業スタイルを徹底的に見直した。
マニュアル通りの「4回目で一線を越える」
という安易なルールは捨てた。
じっくりと時間をかけ、美緒の心の隙間を完全に把握した上で、
ここぞという完璧なタイミングで肌を重ねた。
だからこそ美緒にとって、
俺との関係はビジネスではなく「本物の恋愛」になったのだ。
愛花のように頻繁なLINEで俺を縛ろうとはしてこない。
しかし、彼女は定期的に高額な指名予約を入れ、
高級なプレゼントを俺に貢ぎ続ける。
長期間にわたって売上を出し続ける、俺にとって最高の太客(ATM)だ。
(こうやってたまに『お前だけ』という
嘘の餌を与えて、生殺しにしておけばいい)
脳内の冷徹な自分がそう囁く。
だが同時に、胸の奥を激しい虚無感が侵食していくのを感じていた。
狂った客に脅されるのも地獄だが、
自分を聖者のように信じている客の人生を、
少しずつ削り取って自分の糧にしているこの瞬間もまた、別の地獄だった。
俺が磨き上げたこの「完璧な恋人の技術」は、
人を欺き、貪り食うためだけの濁った牙だ。
「じゃあね、シオン。来月もまた、
同じ時間に予約入れておくからね」
タクシーを見送り、夜の街に一人残された時、
俺の心を占めていたのは、高額な売上を達成した達成感ではなかった。
ただ、底の抜けたような冷たい虚しさだけだった。
三十代前半。今はこの騙しの技術で、
同世代の会社員より遥かに稼げている。
だが、いつまでだ?
鏡を見る回数が、確実に増えた。
目元の微かな小じわ、肌の衰え。
どんなに高級なサプリメントを飲み、
メンテナンスを重ねても、若さという最大の資本は
砂時計のように毎日零れ落ちていく。
三十代後半、そして四十代になった時、
誰がこの「シオン」という偽物の男を買ってくれるというのだろう。
その時、俺には何が残る?
名刺もない。
社会的信用もない。
薫のように帰るべき家庭もなければ、
愛花のように良くも悪くも自分に執着してくれる人間もいない。
そして、卓也のように未来へ続いていく
持続可能な居場所もない。
老後に訪れるであろう、誰も俺の本名を知らない「本当の孤独」。
その強烈な恐怖が、冷たい手となって
俺の心臓をわしづかみにした。
息が上手く吸えなくなるほどの目眩が襲う。
(もう辞めたい。こんな偽物の生活、もう限界だ)
頭の中で、本名の自分が叫び声を上げていた。
ジーンズのポケットで、
営業用のスマホが「ブーッ」と震える。
画面には、新しい新規の客からの指名通知が表示されていた。
俺は大きく深呼吸をし、
冷え切った夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
それから、ゆっくりとスマートフォンの画面をタップし、受託の操作をする。
今はまだ、辞められない。
今の俺には、この生き方しかないのだから。
ポケットから手を取り出し、髪を軽く整える。
鏡の代わりに映るビルのガラス窓に向かって、
俺は一瞬で、完璧な、上品で優しい「シオン」の作り笑いを顔に貼り付けた。
「お待たせ」
声のトーンを極上の低音に響かせながら、
俺は次の非日常の部屋へと、ゆっくりと足を戻していった。
(完)




