第99話:奇跡は、命を喰らう
私の白氷が、水面から、湖の底へと、しみ渡っていきます。
冷えが、闇を、なぞる。すると、それまで見えなかったものが、月光の中に、ゆっくりと、浮かび上がってきました。
湖の面に、無数の、細い線が。凍てついた、銀の糸のように、光を弾いて、現れたのです。
「ひっ……」
「なんだ、あれは……」
群衆が、後ずさりました。その糸は、湖の中央――黒い祭壇のあたりから、放射状に、伸びています。一筋は、畑へ。一筋は、森へ。そして、幾筋もが、岸に立つ、人々の、足もとへと。
「動いて、いるぞ……!」
誰かが、叫びました。
その通りでした。糸は、脈打つように、湖の中心へ向かって、ゆっくりと、何かを、運んでいたのです。土の色を。緑の色を。そして、人の、ぬくもりを。少しずつ、少しずつ、あの祭壇へと、吸い上げながら。
「これが、あなた方の、幸福の正体です」
私は、立ち上がり、群衆を、見渡しました。
「この湖は、恵みを、与えているのでは、ありません。あなた方から、生命力を、奪っているのです。畑の実りも、あなた方の健やかさも――少しずつ、この糸を通って、湖に、吸われている。だから、捧げても、捧げても、飢えは、消えない。病は、退かない。捧げた者の、その分だけ、また、地が、痩せるのですから」
「う、嘘だ……!」
白い衣の一人が、叫びました。けれど、その足もとの糸が、月光の中で、確かに、脈打っているのを、彼自身が、見ていました。
「では、なぜ、ノアさんの病は、癒えたのか。……この地の、どの薬も、効かなかったのは。原因が、この子の中に、なかったからです。この子は、湖に、生命力を、吸われていた。だから、いくら薬を飲んでも、追いつかなかった。私とシエルは、ただ、奪われた分を、還しただけ。――御光ではなく」
シエルが、ノアさんの手を握ったまま、前へ、進み出ました。その小さな指先から、淡い、優しい冷気が、こぼれます。すると、ノアさんの足もとへ伸びていた、一筋の糸が、ふっつりと、断ち切られました。
「奪うのが、あの光。……還すのが、わたしたちの、氷なんです」
湖畔が、水を打ったように、静まり返りました。
松明の炎だけが、ぱちぱちと、爆ぜています。人々は、自分の足もとの、銀の糸を、そして、ノアさんの、健やかな笑顔を、交互に、見比べていました。
――信じてきたものが。
崩れる音が、聞こえるようでした。
「馬鹿な……!」
桟橋の上で、ジェラール子爵が、声を、荒らげました。私が、この地に来て、初めて聞く、彼の、乱れた声でした。
「たばかりだ! そのような、いかさまの氷細工で……! 御光は、我が妻を、安らかにしてくださった! この地に、繁栄を! それを、それを、貴様は……!」
穏やかだった仮面が、剥がれ落ちます。その下から現れたのは、深い、深い、恐れでした。信じてきたものが、偽りだったと認めることは、彼にとって――愛する妻の死が、無意味だったと、認めることに、他ならなかったのです。
私は、胸が、締めつけられました。
この人を、論破することは、勝利ではない。この人の、いちばん柔らかい傷を、抉ることだから。
「子爵さま。……あなたの奥さまは」
「黙れ!」
子爵は、群衆に、向き直りました。その目は、もはや、正気の、色ではありませんでした。
「見せてやる……! 真の、御光を! 誰よりも、深く、捧げれば……! レネは、必ず、応えてくださる……!」
そして、彼は。白い祭服のまま、桟橋の先へと、歩き出したのです。月を映す、黒い水へと、向かって。
第99話、お読みくださってありがとうございますわ。
まやかしの糸が、白日のもとに――いえ、満月のもとに、暴かれました。
湖は、恵みを与えていたのではなく、この地の命を、少しずつ喰らっていた。捧げれば捧げるほど、地が痩せていく。ノアくんの病が癒えた「事実」と、脈打つ銀の糸。二つを見比べ、民の信仰に、大きなひびが入ります。
シエルの一言も、効いていますわね。「奪うのが、あの光。還すのが、わたしたちの氷」。
けれど、勝利は、甘くありません。
真実を突きつけられた子爵ジェラールの、穏やかな仮面が、剥がれ落ちました。その下にあったのは、「妻の死が無意味だった」と認めることへの、深い恐れ。
そして彼は、自ら、湖へと歩き出してしまいます……!
次回、第100話「湖から、還る者」。
崩れる信仰。そして、暴走する子爵。
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