第98話:まやかしの、糸
満月が、昇りました。
鏡湖の水面に、まんまるの月が、もう一つ、浮かんでいます。湖畔には、昨夜よりも、多くの松明。多くの、白い衣。この地の、ほとんどの民が、集まっているようでした。
その中央に、私は、進み出ました。カイルム様が背に、シエルとロザリア様が傍らに。そして、私の隣には――ノアさんの手を引いた、イレーヌさんが、震える足で、立っていました。
「おお、聖女さま。おいでくださいましたか」
祭壇代わりの、湖に張り出した木の桟橋。その上に、ジェラール子爵が、白い祭服をまとって、立っていました。相変わらずの、穏やかな微笑みで。
「約束どおり、御光が、真偽を示す夜。あなたの奇跡を、皆に、見せてくださいますな」
群衆の視線が、私に、突き刺さります。憎しみと、好奇と、値踏み。
――ここで、派手な氷でも、出せば。跪かせる光でも、放てば。この人たちは、私を、「新しい奇跡」として、崇めるかもしれません。けれど、それは。アウレリアと、同じことです。
「いいえ、子爵さま」
私は、静かに、首を振りました。
「私は、奇跡を、見せません。その代わり――皆さんが信じている、あの湖の光の、本当の姿を、見せます」
どよめきが、走りました。
私は、イレーヌさんの手を、そっと、握ります。彼女は、ぐっと唇を噛み、そして、群衆に向かって、声を、張り上げました。
「みんな、聞いて! あたしは、イレーヌ! この子は、ノア! ……あたしは、昨日まで、この子のために、湖に入るつもりだった!」
ざわめきが、大きくなります。「あの女、偽聖女に、たぶらかされたな」と、囁く声。
「でも、違ったんだ! この子は――ノアは、湖に、誰も、沈めてない! それでも!」
イレーヌさんが、ノアさんの背を、そっと、押しました。
三年、床から起き上がれなかった子が。医者に、匙を投げられた子が。しっかりと、自分の足で、群衆の前に、立ちました。頬に、健やかな血の色を、差して。
「みんなの前で……げんきに、なりました。おねえさまの、氷で」
湖畔が、静まり返りました。
その静けさに、私は、確かな手応えを、感じました。誰もが、知っていたのです。ノアさんの病が、どれほど重かったかを。それが、御光に、何も捧げずに、癒えている。この「事実」が、彼らの、固く信じた心の、いちばん柔らかいところに、ひび、を入れた。
「……ふむ」
子爵の声が、初めて、ほんの少し、低くなりました。
「病が癒えたのは、結構なこと。だが、それも、御光の、余慶でしょう。この地の繁栄あればこそ――」
「では、その繁栄が、どこから来ているのか。今から、皆さんの目に、視えるように、いたします」
私は、湖の岸へと、歩み寄りました。片膝をつき、水面に、両手を、かざします。
月光を弾く、黒い水。その下に、あの、太陽のかたちの祭壇が、無数の糸を、この地に、張り巡らせている。
「よく、ご覧ください。あなた方の、幸福の、正体を」
私は、目を、閉じました。
そして、私の中の、いちばん澄んだ氷を――解き、放ちます。
第98話、お読みくださってありがとうございますわ。
満月の夜。ついに、公開の対決です。
エルシア様は、派手な奇跡を「見せない」道を選びました。それをすれば、アウレリアと同じになってしまう。代わりに見せるのは、「事実」。
イレーヌさんの、勇気の告白。そして、ノアくんが、自分の足で、みんなの前に立った――。
御光に何も捧げずに、癒えた命。三年床に伏せた子を、誰もが知っていたからこそ、この「事実」は、固く信じた心に、ひびを入れました。
子爵の声が、初めて、低くなりましたわね。
そしてエルシア様は、湖の水面に手をかざします。「あなた方の、幸福の正体を」――。
次回、第99話「奇跡は、命を喰らう」。
いよいよ、まやかしの糸が、白日のもとに。
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