第97話:この目に、見せます
満月の日の、昼下がり。
私は、人けのない、湖の北の岸に、立っていました。
昨夜のような、松明も、群衆も、ありません。ただ、鏡のような水面が、初夏の陽を、静かに、跳ね返しているだけです。
「カイルム様。少しだけ、力を、お借りします」
私は、片膝をつき、水面に、そっと、手のひらを、かざしました。
白氷を、鋭い刃としてではなく。冷たい水に、一滴、墨を落とすように。私の魔力を、湖の中へと、静かに、沈めていきます。冷えは、水を伝い、底へ、底へと、降りていきました。
――そして、私は、視ました。
湖底。深い、深い、闇の底に。それは、うずくまっていました。黒い、太陽のかたちをした、祭壇。ソルレイで見たものと、同じ。けれど、比べものにならないほど、大きい。
そして、その祭壇からは、幾筋もの、細い糸が、伸びていたのです。
一筋は、土へ。一筋は、木々の根へ。一筋は――町の、人々の方へ。まるで、蜘蛛が、獲物を待つように。この地の、命という命から、生命力を、少しずつ、少しずつ、吸い上げている。ノアさんの、癒えぬ病の、正体は、これでした。
そして、いちばん太い一筋が。
地を離れ、遥か南――海の方角へと、まっすぐに、伸びていました。
「……ここで集めた命が、あの糸を通って、どこか遠くへ、送られている」
私は、確信しました。この湖の奇跡は、この地だけの話では、ない。もっと大きな、何かの、一部なのです。リオが、聖都から、送ってくれた報せ。あの「隠し祭壇」の、絡繰りと、繋がっている。
「見えない糸、か」
カイルム様が、私の隣に、膝をつきました。その眼差しが、ふと、和らぎます。
「君は、いつもそうだな。誰も見ようとしない、水の底を、覗き込む。……その真っ直ぐさに、私は、二十数年ぶんの氷を、溶かされたのだが」
「……もう。今は、真面目な、お話をしているのですわ」
頬が、熱くなるのを、感じます。けれど、その熱が、冷えた指先に、勇気を、灯してくれました。
昼の光の下でなら、この糸は、見えません。けれど、私の白氷なら――皆の目に、視えるかたちに、できるかもしれない。奇跡が、実は、この地の命を、喰らっているという、その「事実」を。
◇◇◇
館へ戻ると、あの初老の侍女――ハンナが、静かに、私を待っていました。
「聖女さま。町の者に、そっと、声をかけておきました。旦那さまを、心のどこかで、案じている者は、少なくございません。……表立っては、言えぬだけで」
ハンナは、声を潜めました。
「今宵の満月の儀。列に並ぶふりをして、様子を見にくる者を、集められましょう。あなたさまが、何かを、見せてくださるのなら」
「……ありがとう、ハンナさん。あなたが、いてくださって、心強い」
狂信の、ただ中にも。心の底では、湖を、恐れている人が、いる。子爵を、止めたいと願う人が、いる。ハンナのように。そして、イレーヌさんのように。
その、小さな、けれど確かな灯を、繋いでいけば。
「おねえさま!」
シエルが、駆けてきました。その手を、ノアさんが、しっかりと、握っています。ノアさんは、もう、走れるほどに、元気になっていました。
「ノア、約束してくれたの。今夜、みんなの前で、ちゃんと立つって。……こわくないよって、わたしが、ずっと隣にいるから」
二人の、繋いだ手を見て。私は、静かに、頷きました。
今宵。満月が昇る前に。
私は、氷で、湖を塞ぐのでは、ありません。この、たった一つの、笑顔を。この目に、見せる。
第97話、お読みくださってありがとうございますわ。
昼の湖に潜って、エルシア様が視たもの。
湖底の、巨大な太陽の祭壇。そこから伸びる、無数の「見えない糸」。土から、木から、人から――この地の命を、少しずつ吸い上げていたのです。
ノアくんの「治らぬ病」の正体は、これでしたのね。そして、いちばん太い糸は、遥か南の海の方角へ……。リオの報せと、繋がってまいりました。
館の侍女ハンナさん、そしてイレーヌさん。狂信のただ中にも、心の底で湖を恐れる人はいる。その小さな灯を繋いでいく――エルシア様らしい、静かな戦い方ですわ。
そして、ノアくんとシエルの、繋いだ手。今夜、この子が、みんなの前に立ちます。
次回、第98話「まやかしの、糸」。
満月の夜。ついに、エルシア様の反撃が。
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