第96話:救っても、恨まれて
夜が明けても、館の空気は、冷えたままでした。
昨夜、湖から連れ戻したあの老人は、朝には、姿を消していました。侍女の話では、こっそり、別の岸から、また湖へ向かおうとしているのだ、と。
「わたしが、追いかけて、連れ戻します」
シエルが、立ち上がりかけました。私は、その手を、そっと、押しとどめます。
「……いいえ、シエル。それでは、きっと、同じことの繰り返しになる」
一人を岸に戻しても、その心が湖を向いている限り、この人は、何度でも、水へ向かうでしょう。氷で足を止めることは、できても。その足を、自分から、こちらへ向けさせることは、できない。
昨夜から、ずっと、そのことを、考えていました。
私は、これまで、祭壇を「壊す」ことで、人を救ってきました。ソルレイでも。けれど、この湖畔領の人々は、祭壇に、囚われているのではありません。祭壇を、心から、信じているのです。壊せば、恨まれる。奪えば、憎まれる。
「――信仰は、氷では、溶けない」
私の呟きに、窓辺の椅子で、ロザリア様が、扇を、ぱちりと閉じました。
「そうですわね。人の心は、押しても引いても、動きませんもの。……けれど、エルシア様」
わたくしは、と、ロザリア様は、いつもの、余裕のある笑みを、少しだけ、真剣なものに変えました。
「社交界で、わたくしが学んだことが、一つございますの。人の考えを変えるのは、正論でも、脅しでもない。――その人自身の、目で、見たものだけですわ」
「……目で、見たもの」
「ええ。どれほど言葉を尽くしても、『でも、みんなが言っているから』で、人は動きません。けれど、たった一つでも、『自分の目で見た事実』があれば――そこから、綻ぶのですのよ」
私は、はっと、顔を上げました。
――事実。
この地の人々は、皆、信じています。御光に捧げれば、飢えも病も、退くのだと。だから、湖へ向かう。けれど、もし。もし、その反対の「事実」を、彼らの目の前に、置けたなら。
御光になど、頼らずに。病が、癒えた、という――
「ノアさん」
私の言葉に、隣の部屋で、シエルと積み木を並べていた、あの子が、顔を上げました。昨日まで、死の淵にいた子が。今は、頬に血の色を差して、笑っています。
「あの子は、湖に誰かを沈めなくても、癒えました。御光ではなく、私とシエルの、氷で。……この地の誰もが、諦めていた病が」
「おねえさま」
シエルが、こくり、と頷きました。その瞳が、きらきらと、輝いています。
「ノアを、みんなに、見せるんだね。『捧げなくても、助かるんだよ』って」
「ええ。……言葉ではなく、この子の、笑顔で」
けれど、と、私は、すぐに、表情を引き締めました。それは、イレーヌさんとノアさんを、群衆の前に、立たせるということ。「偽聖女に与した母子」として、この地に、居られなくするかもしれない。
「危険を、承知で、お願いすることに、なります」
その時でした。
「――あたしに、やらせてください」
戸口に、イレーヌさんが、立っていました。真新しい白い衣ではなく、洗いざらしの、普段着で。その手を、しっかりと、握りしめて。
「あたしは、この子を、湖に、捧げようとした。あのまま、あなたが来なければ……ノアは、こんなに、笑えなかった。あたしは、みんなに、伝えたいんです。あたしみたいに、間違える前に」
その目には、昨日までの、諦めの色は、もう、ありませんでした。
私は、この人の、勇気に、頭を下げました。
「……ありがとう。では、支度を。明晩の、満月の前に。子爵の、御光より先に――この子の笑顔を、皆に、見せましょう」
第96話、お読みくださってありがとうございますわ。
一人を岸に戻しても、心が湖を向いている限り、その人はまた水へ向かってしまう。
「信仰は、氷では溶けない」――エルシア様が突き当たった、この章いちばんの壁ですわね。
そこへ、ロザリア様の一言。
「人の考えを変えるのは、その人自身が、自分の目で見た事実だけ」。
社交界を生き抜いた才媛の、鋭い知恵です。
そしてエルシア様が思い至ったのは、ノアくんの、笑顔。
御光に頼らず、氷で癒えた命。この「事実」を、民の前に置く。
名乗りを上げたイレーヌさんの勇気にも、胸が熱くなりますわ。
次回、第97話「この目に、見せます」。
満月の前に。エルシア様の、静かな反撃が始まります。
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