第95話:満月を、待たずに
満月には、まだ一日ある。
けれど、湖畔には、もう、松明の列が灯っていました。
子爵は、待たなかったのです。私が邪魔をする前に。奉納を、今宵へと、早めた。
「――間に合って」
私は、夜の道を駆けました。カイルム様が、私を軽々と抱え、氷狼の速さで湖へと運んでくださいます。シエルとロザリア様も、遅れじと続きました。
鏡湖のほとりに出て、私は、息を呑みました。
白い衣の人々が、静かに、列をなしていたのです。その先頭で、初老の男が一人、すでに膝まで、黒い水に浸かっていました。祈るように、手を合わせて。
「やめて――!」
私は、地を蹴りました。指先から、白氷が奔ります。荒々しくではなく、けれど、迷いなく。
湖面が、男の腰のあたりで、薄く、凍りつきました。行く手を、透きとおった氷が、そっと塞ぎます。男の体を、氷の腕が、岸へと押し戻しました。
――助かった。
そう、思ったのも、束の間でした。
「……なぜ、邪魔をなさる」
振り返った男の顔は、感謝では、ありませんでした。裏切られた、とでもいうような、深い、絶望でした。
「わしは、御光の一部に、なるはずだった……! それを、お前が……!」
どよめきが、群衆に広がります。松明の炎が、いくつもの顔を、赤く照らしました。そのどれもが、私を、憎しみの目で、見ていました。
「偽聖女だ」
「あの女が、わしらの救いを、奪いに来た!」
石が、飛んできました。カイルム様が、氷の壁で、それを弾きます。
私は、立ち尽くしました。剣を向けられたのなら、避けられます。氷なら、防げます。けれど、これは――「助けないでくれ」という、叫びなのです。救おうとする手が、憎まれる。こんな戦い方を、私は、知りませんでした。
「お静まりなさい」
穏やかな声が、群衆を、鎮めました。
ジェラール子爵が、進み出ます。松明の光の中でも、その微笑みは、少しも、揺らいでいませんでした。
「聖女さま。あなたは、この者たちの、幸福を、氷で塞がれた。それが、あなたの救いですか」
「……救いです。湖に沈めば、この人は、死ぬ。生きていれば、また、明日を、迎えられる」
「明日。ふふ。あなたの言う明日には、この地の飢えも、病も、戻ってくるのですよ」
子爵は、両手を広げ、群衆に、語りかけました。
「皆の者。見たであろう。偽りの聖女は、御光の道を、氷で塞ぐ。ならば、決めようではないか。――明晩。満ちる月の夜。正しき奉納を、執り行う。その時こそ、御光ご自身が、いずれが真の聖女か、お示しくださる」
わあっ、と、歓声が上がりました。
私は、拳を、握りしめます。明晩。満月の夜。この人は、私との対決を、公開の儀式に、変えてしまった。私が止めれば、「偽聖女が奇跡を妨げた」証しになる。止めなければ、また、命が沈む。
――どちらに転んでも。
「エルシア」
カイルム様が、私の凍えた指を、その大きな手で、包みました。夜気の中で、ただ一つ、熱いもの。
「顔を上げろ。君は今、一人の命を、確かに岸へ戻した。石を投げる百人より、その一人の重さを、私は知っている」
その熱が、震える指先から、ゆっくりと、胸へ、上ってきます。
そうです。私は、間違って、いない。ただ、まだ、届いていないだけ。
「……明晩まで」
私は、湖を、見据えました。月に一日、足りない月が、水面で、歪んでいます。
「時間を、いただきましょう。氷で塞ぐのではなく――この目で、あの光の正体を、暴くための」
第95話、お読みくださってありがとうございますわ。
満月を待たず、子爵が奉納を早めた――。
エルシア様は間一髪で老人を救いますが、返ってきたのは「なぜ邪魔をする」という絶望と、群衆の憎しみでした。
救おうとする手が、憎まれる。氷でも剣でも防げない、いちばん苦しい戦いですわね。
そして子爵ジェラールは、なんとも巧妙です。
明晩の満月の夜を「御光がどちらが真の聖女か示す」公開の儀に仕立ててしまいました。止めても止めなくても、エルシア様が不利になる二正面の罠。
けれど、エルシア様は折れません。カイルム閣下の温もりを背に、「あの光の正体を、この目で暴く」と決めました。
次回、第96話「救っても、恨まれて」。
力で止めることの、限界。エルシア様が選ぶ、別の道とは。
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