第94話:本物の、光
イレーヌの、小さな家。
私は、ノアの枕元に膝をつき、そっと、その額に手をかざしました。
白氷の力を、荒々しく振るうのではなく。ほんのひと匙の塩を溶かすように、静かに、静かに。
冷たさではなく、澄んだ涼やかさが、指先から、ノアの体へと、染み込んでいきます。熱に浮かされ、浅かった呼吸が、少しずつ、深く、穏やかになっていきました。
「シエル。手伝って」
「はい、おねえさま」
シエルの純氷が、私の氷に、そっと寄り添います。奪われたものを、還す氷。この子の体から、何かに吸い取られていた「熱」ではない「なにか」を、そっと、押し戻すように。
――ああ、やはり。
ノアに触れて、私は、確信しました。この子の弱りは、ただの病ではない。この地そのものが、痩せている。まるで、あの湖の底の"何か"が、土から、水から、人から、生命力を、少しずつ、吸い上げているような。
だから、どんな医者の薬も、効かなかった。原因が、この子の中には、なかったのですから。
どれほどの時が、経ったでしょう。
ノアの、閉じられていた瞼が、ゆっくりと、震えました。
「……かあ、さん?」
澄んだ、幼い声でした。頬には、ほんのりと、赤みではなく、健やかな血の色が、差しています。
「ノア……! ノア……!」
イレーヌが、我が子を、かき抱きました。三年ぶりだという、熱のない、我が子の体を。
「あったかい……ちゃんと、あったかい……! ああ、神さま……!」
そして、彼女は、はっと、顔を上げました。畳んだ、白い衣を見つめ――それから、私を見て、床に、崩れ落ちたのです。
「あたし……あたし、この子を、置いて。湖に……! この子は、こんなに、生きられたのに……! あたしは、なんてことを……!」
私は、震えるその肩を、そっと、抱きしめました。
「あなたは、間違って、いません。ただ、これしかないと、思い込まされていただけ。……間に合いました。それで、いいのです」
窓の外で、鏡湖が、夕陽を照り返していました。
美しい、けれど、命を吸う湖。あの偽りの光は、人を救うふりをして、この地から、生きる力を、奪い続けている。
「おねえさま」
シエルが、ノアの小さな手を握りながら、私を見上げました。
「本物の光って……きっと、こういうのだよね。眩しくなくても、あったかい」
私は、頷きました。
派手な奇跡ではない。跪かせる光でもない。ただ、一つの熱を、一人のぬくもりを、取り戻すこと。それが、私の、氷の光。
「……エルシア」
戸口に、カイルム様が、立っていました。その表情は、いつになく、硬いものでした。
「町中に、広まっている。『偽聖女が、奉納をやめさせようとしている』とな。……子爵が、明日の満月の儀を、早める気だ」
私は、立ち上がりました。
一人を、救った。けれど、湖のほとりには、まだ、白い衣の列が、続いている。
「――行きます。明日ではなく、今宵。あの湖畔へ」
第94話、お読みくださってありがとうございますわ。
ノアくん、回復です……! 三年ぶりの、熱のない体。イレーヌさんの涙に、もらい泣きしてしまいますわね。
そして明かされた、湖の本当の恐ろしさ。あの祭壇は、生贄を捧げさせるだけでなく、この地そのものから、じわじわと生命力を吸い上げていた。ノアくんの「治らぬ病」の正体は、これだったのです。
「本物の光って、眩しくなくても、あったかい」――シエルの言葉が、この章のテーマそのものですわね。
アウレリアの偽りの奇跡は、眩い。けれど、エルシア様の氷は、あたたかい。
一人の母子は、救われました。けれど、湖畔の白い列は、まだ続いている。
そして子爵は、奉納の儀を早めようとしている……!
次回、第95話「満月を、待たずに」。エルシア様が、ついに湖畔へ乗り込みます。
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