第93話:その子は、熱があった
翌朝。私は、町を、歩いてみることにしました。
偽物と罵られようと、目を逸らすわけには、いきません。この町の、本当の姿を、知らなければ。
シエルが、私の隣を、ちょこちょことついてきます。カイルム様とロザリア様は、それとなく、離れた場所から見守ってくださっていました。
湖のほとりの、小さな家の前で。
私は、足を、止めました。
若い母親が、荷物をまとめていたのです。真新しい、白い衣を、大切そうに畳んで。その傍らに、幼い男の子が、ぐったりと、横たわっていました。
――あの子は。
ひと目で、わかりました。頬の赤み。浅い呼吸。乾いた唇。高い、熱。……そして、その奥に潜む、奇妙な"弱り"。まるで、体の芯から、生命力そのものが、少しずつ、吸い取られているような。
「失礼します。そのお子さん、熱が」
「……あなた、氷の、偽聖女さま」
母親は、私を見て、一瞬、身をこわばらせ――けれど、すぐに、穏やかな、諦めたような微笑みを、浮かべました。
「もう、いいんです。この子は、ノア。生まれつき、体が弱くて。お医者さまにも、長くはないって、言われて」
「それは、いつのことですか。今、診せてください。まだ、間に合うかも」
「いいえ」
母親は――イレーヌと名乗ったその人は、静かに、首を振りました。
「明日の満月の夜、あたしが、湖に入ります。あたしが御光の糧になれば、その御恵みで、ノアは、救われる。子爵さまが、そう、教えてくださったんです」
私は、息を、呑みました。
「待ってください。あなたが湖に入っても、ノアさんの熱は、下がりません。……この子の弱りは、ただの病では、ないのかもしれない」
「薬で治るなら、とっくに治ってます!」
イレーヌの声が、初めて、震えました。
「三年です。三年、あらゆる薬を試して、それでも、この子は……! もう、あたしには、これしか、ないんです。母親が、命をかけて祈るくらいしか。……それの、どこが、いけないっていうんですか」
涙が、その頬を、伝いました。
この人は、狂信者ではありませんでした。ただ、追い詰められた、一人の母親でした。子を救う手立てを、すべて奪われ、最後に残った「祈り」という藁に、すがっているだけの。
その時でした。
「……ノア、っていうの?」
シエルが、そっと、男の子の枕元に、膝をつきました。そして、自分の小さな手を、ノアの、熱い額に、当てたのです。
「わたしも、昔、ずっと、寒い場所に、閉じ込められてたの。誰も、助けに来てくれないって、思ってた。……でもね」
シエルの指先から、淡い、優しい冷気が、こぼれました。
ノアの、苦しげだった呼吸が、ほんの少し、和らぎます。
「諦めないで。……わたしの、おねえさまはね。ほんとに、すごい聖女さまなの」
イレーヌが、目を、見開きました。
私は、静かに、膝をつき、母の目を、まっすぐに、見つめました。
「イレーヌさん。お願いです。一度だけ、私に、ノアさんを癒させてください。……もし、私の氷で、この子が少しも楽にならなかったら。その時は、あなたを、止めません」
第93話、お読みくださってありがとうございますわ。
満月の奉納の儀を、明日に控えて。
その列に並ぼうとしていたのは、追い詰められた、一人の母親・イレーヌさんでした。
病の我が子ノアを救うため、自らの命を差し出そうとする……。彼女は狂信者ではなく、あらゆる手立てを奪われた、ただの母なのですね。
そして、シエル。
「わたしも、昔、ずっと寒い場所に閉じ込められてた」――
救われた側だったあの子が、今、救う側に回ろうとしています。純氷の優しい冷気が、ノアくんの熱を、そっと和らげました。第一部からシエルを見守ってくださった皆さまには、胸に来るものがあったのでは。
「良くならなければ、止めません」。
エルシア様は、大きな賭けに出ました。果たして、ノアくんの病は――。
次回、第94話「本物の、光」。
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