第92話:亡き妻の、笑顔
その夜、私は、なかなか寝つけませんでした。
子爵の館の一室。窓の外には、月光を弾く鏡湖が、静かに横たわっています。あの湖の底に、いくつの命が沈んでいるのかと思うと、胸が、締めつけられました。
水を一杯もらおうと廊下へ出ると、初老の侍女が、一人、燭台の火を落として回っていました。
「眠れませぬか、聖女さま」
その人は、私を「偽物」とは呼びませんでした。町の人々とは、どこか違う、静かな目をしていました。
「……ひとつ、伺っても。子爵さまの、奥さまのことを」
侍女の手が、ふと、止まりました。そして、ぽつり、ぽつりと、語り始めたのです。
「レネさま、と、おっしゃいました。それは、お優しい方で。子爵さまとは、それはもう、仲睦まじくて」
五年前。レネ夫人は、原因の知れぬ病に倒れたのだといいます。日に日に痩せ衰え、どんな医者も、薬師も、匙を投げた。
「旦那さまは、狂ったように、あらゆる薬を探されました。大枚をはたいて、王都の名医まで呼んで。……けれど、奥さまは、日ごとに、弱っていくばかりで」
私は、静かに、拳を握りました。
――原因の、知れぬ病。
胸の奥が、疼きました。もし、あの偽りの光に縋るより前に、まっすぐに手を差し伸べる者が、そばにいたなら。救えた命も、あったのではないか、と。
「そんな折に、旅の途中の、アウレリアさまが。奥さまの枕元で、祈られたのです。そうしたら、あれほど苦しんでいた奥さまが、嘘のように、安らかなお顔になられて。……その、三日後に、息を、引き取られました」
侍女の目に、涙が滲みました。
「旦那さまは、こう、思い込まれたのです。妻の苦しみを取り除いてくれたのは、御光だ。妻は死んだのではない、御光の一部になったのだ、と。……そう信じなければ、あの方は、生きて、いけなかったのでございましょう」
私は、言葉を、失いました。
あの穏やかな狂信は、深い、深い、愛の裏返しだったのです。愛する人を喪った悲しみに、耐えきれず。「死」を「昇華」と呼び替えることでしか、立っていられなかった、一人の男の。
「聖女さま」
侍女は、私の手を、そっと握りました。
「あたくしは、ずっと、恐ろしいのです。旦那さまは、いつか、ご自分も、湖に入ってしまわれる。奥さまのもとへ行くのだと、そうおっしゃって。……どうか。どうか、旦那さまを、止めてくださいまし」
その手の、震えを。
私は、しっかりと、握り返しました。
◇◇◇
部屋に戻ると、窓辺に、カイルム様が立っていました。
「聞いていたのか」
「……ええ。少し」
「厄介な相手だ。憎むことすら、できん」
カイルム様は、月光の湖を、見下ろしました。
「だが、な、エルシア。悲しみに沈んだ人間を、私は、一人、知っている。二十数年、誰も近づけなかった、氷の死神という男だ」
その横顔が、ふっと、和らぎます。
「そいつを溶かしたのは、正論でも、力でもなかった。……ただ、隣にいて、手を、握ってくれた者がいた。それだけだ」
私は、その言葉を、そっと、胸に、抱きしめました。
子爵を、狂信から連れ戻す。その糸口は、きっと――彼の、凍りついた悲しみの、いちばん深いところに、ある。
第92話、お読みくださってありがとうございますわ。
ラクロワ子爵ジェラール。彼を狂信へと堕としたのは、亡き奥さま・レネさまへの、あまりに深い愛でした。
救えなかった妻。その死を「御光になった」と信じ込むことでしか、生きていけなかった――。
憎むことすら、できない敵。エルシア様の戦いが、いかに難しいか、伝わりましたでしょうか。
そして、カイルム閣下。
「悲しみに沈んだ人間を、私は一人、知っている」――かつての、氷の死神ご自身のことですわね。
正論でも力でもなく、隣で手を握ってくれた人がいた。エルシア様が、閣下にしたように。
この経験こそが、子爵の凍った心を溶かす、糸口になるのかもしれません。
次回、第93話「その子は、熱があった」。
迫る満月の奉納の儀。その列に、幼い我が子のために並ぼうとする、一人の母が――。
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