第91話:氷は、届かない
ラクロワ子爵の館は、湖のほとりに、静かに建っていました。
町の宿には拒まれた私たちを、その館の主は、驚くほど、丁重に迎え入れたのです。
「ようこそ、おいでくださいました。北の、氷の聖女さま」
現れたのは、穏やかな面差しの、初老の男性でした。ジェラール・ド・ラクロワ子爵。声を荒らげるでもなく、私を「偽物」と罵るでもなく。ただ、慈しむような微笑みを、たたえていました。
「町の者が、失礼をしたでしょう。許してやってください。あれらは、幸福なのです。幸福な者ほど、それを乱す者を、恐れるものですから」
「……幸福、ですか」
「ええ」
子爵は、窓の外の、鏡湖を見つめました。夕陽を映した湖面が、燃えるように、輝いています。
「アウレリア様が、この地に奇跡を授けてくださってから、ラクロワは変わりました。飢えは消え、病は退き、誰もが笑って暮らしております。……その御恵みに、我が身を捧げて報いたい。そう願う者が、後を絶たぬのです。これほどの幸福が、他にありましょうか」
私は、拳を、握りしめました。
「子爵さま。あの湖で、何人の命が、失われたのか、ご存じですか」
「失われた? いいえ」
子爵は、静かに、首を振りました。
「あれは、失われたのではありません。御光の一部と、なられたのです。より尊い形で、生き続けておられる。……あなたには、そう見えないのですね。お気の毒に」
哀れむような、その口ぶり。
怒鳴られるより、脅されるより、ずっと、恐ろしいものでした。この人は、心の底から、そう信じている。嘘をついているのではない。狂っているのでもない。ただ、まっすぐに、信じきっているのです。
「あの湖に沈まずとも、救える命が、あります。私の氷は、まやかしの光とは違う。本当に、癒すことができるのです。どうか、私に――」
「救える、と?」
子爵は、初めて、少しだけ、微笑みを深くしました。
「五年前、私の妻は、どんな薬でも治りませんでした。医者も、薬師も、匙を投げた。……けれど、アウレリア様の御光は、あれを、安らかにしてくださった。薬では届かぬ場所に、御光は、届いたのです」
その瞳の奥に、深い、深い、悲しみの色が、揺れました。
――ああ。
この人の狂信の根には、癒えぬ喪失が、埋まっている。
「では、失礼して」
子爵は、穏やかに、席を立ちました。
「明後日の満月の夜、湖畔で、奉納の儀がございます。ぜひ、ご覧になっていってください。何が人を、真に幸福にするのか。……その目で、確かめられるとよい」
残された私は、しばらく、動けませんでした。
「おねえさま」
シエルが、そっと、私の手を握ります。その手も、少し、冷たくなっていました。
「あの人……悪い人には、見えなかった。だから、余計に、こわいです」
「……ええ。そうね」
剣なら、振り払える。氷なら、凍らせられる。
けれど、あの穏やかな確信を、私は、どうやって、溶かせばいいのでしょう。
「エルシア」
カイルム様が、私の肩に、そっと手を置きました。
「一人で背負うな。氷で解けぬなら、二人で、別の道を探せばいい。……私は、君が凍える限り、何度でも、その手を温めるためにいる」
その熱に、私は、深く、息を吸いました。
氷は、届かない。
ならば――届く言葉を、探すしかない。この、歪んでしまった湖畔の、たったひとつの、真実の灯を。
第91話、お読みいただきありがとうございますわ。
ついに登場、ラクロワ子爵。
怒鳴りもせず、脅しもせず、ただ穏やかに微笑む――けれど、それが、いちばん恐ろしい敵でした。
彼は、嘘をついているのでも、狡猾なのでもありません。心の底から、湖の奇跡を信じきっている。
そして、その狂信の根には、五年前に亡くした奥さまへの、癒えぬ喪失があったのです。
「薬では届かぬ場所に、御光は届いた」――
人を癒す聖女であるエルシア様にとって、これほど痛い言葉は、ないでしょうね。
剣でも氷でも、あの確信は、溶かせない。
それでもエルシア様は、「届く言葉」を探すと決めました。カイルム閣下の温もりを、背に受けて。
次回、第92話「亡き妻の、笑顔」。
子爵ジェラールを狂信へと堕とした、悲しい過去が、明かされます。
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