第90話:祈りという名の毒
湖畔の町、ラクロワ。
石畳の広場も、井戸端も、パン屋の軒先も。どこを見ても、金色の髪の女性の肖像が、掲げられていました。慈愛の微笑みを浮かべた、太陽の聖女アウレリア。
道行く人々は、その絵の前を通るたび、足を止め、胸に手を当て、祈りを捧げていきます。
「宿を、お願いしたいのですが」
私が声をかけると、宿屋の女将は、愛想のよい笑みを浮かべ――そして、私の顔を見た途端、その笑みを凍りつかせました。
「……あんた、北から来た、氷の女だね」
「はい。北から参りました、旅の者です。一晩、休めれば」
「お帰りよ」
にべもない拒絶でした。
「うちは、アウレリア様を信じる、まっとうな宿だ。偽物の聖女に貸す部屋なんて、ありゃしないよ。……早く出ておいき。あんたがいると、御光が、穢れる」
扉が、私の鼻先で、固く閉ざされました。
次の宿も、その次も、同じでした。
私が「偽聖女」だという噂は、風よりも早く、この町の隅々にまで、行き渡っていたのです。
「……ひどい言われようですわね」
ロザリア様が、扇の陰で、忌々しげに呟きました。
「メルディアの一件が、こんな遠くまで。アウレリアの教団は、噂を配るのが、実に、お上手でいらっしゃること」
私は、広場の肖像画を、静かに見上げました。
美しい絵でした。差し伸べられた手は、まるで、すべての苦しむ者を、救い上げてくれるかのように。
――けれど、この手は。
その実、人々を、湖の底へと、招いている。
ふと、路地の暗がりから、小さな声がしました。
「……あの。氷の、聖女さま」
振り返ると、痩せた老婆が、壁に身を隠すようにして、立っていました。祈りを捧げる人々とは違う、怯えた目をした人でした。
「お願いです。うちの人を……止めてくださいまし。あの人、明日、湖に入るって。孫が熱を出したから、自分が御光の糧になれば、その子が助かるって……そう、信じ込んで」
老婆の目から、涙が、こぼれ落ちました。
「病は、薬で治るものでしょう? 湖に入ったって、孫の熱は、下がりゃしない。……なのに、この町じゃ、あたしみたいなことを言うほうが、罰当たりなんです」
私は、老婆の、皺だらけの手を、そっと握りました。
「――大丈夫。湖に、命を捨てる必要なんて、ありません。お孫さんの熱は、まやかしの光になど頼らずとも、必ず、私が癒します」
「ああ、ああ……!」
そのひとことに、老婆は、崩れるように、泣きました。
この町で、たったひとり。
「おかしい」と、声に出せずにいた人が、ここにいた。
祈りは、時に、毒になる。
救いを装って、人に、自ら命を差し出させる。これほど、恐ろしい毒を、私は、知りませんでした。
「エルシア様」
その時、広場の向こうから、馬に乗った一団が、近づいてきました。先頭の従者が、うやうやしく、頭を垂れます。
「北の、氷の御方とお見受けいたします。我が主、ラクロワ子爵さまが、あなたさまを、館へお招きしたいと」
穏やかで、慇懃な、招きの言葉でした。
けれど、その笑みの奥に、何が潜んでいるのか。
私は、老婆の手を、もう一度、握り返してから――静かに、顔を上げました。
第90話、お読みくださってありがとうございますわ。
美しい町、ラクロワ。ですが、その美しさは、偽りの太陽に照らされたものでした。
「偽聖女」の噂は先回りし、エルシア様は、宿にも泊めてもらえません。
救おうとする者が拒まれ、命を捨てようとする者が讃えられる……。歪んでしまった町の姿、いかがでしたでしょうか。
けれど、たったひとり。
「病は薬で治るもの」と、涙ながらに訴えた老婆がいました。
どんなに歪んだ町にも、まだ、正気の灯は消えていない。エルシア様が守りたいのは、きっと、その小さな灯なのですわね。
そして、いよいよ――この歪んだ"奇跡"を、町に根づかせた張本人からの、お招きです。
次回、第91話「氷は、届かない」。
力でも氷でも解けない心と、エルシア様は、どう向き合うのでしょう。
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