第89話:湖畔に集う、捧げる者たち
南へ、幾日。
雪の匂いは遠ざかり、やがて風に、水の香が混じり始めました。
ラクロワ湖畔領。
丘を越えた先に広がったその地は――美しい、と、素直にそう思いました。
鏡湖ミロワール。
名の通り、湖面は空をそのまま映し、まるでもう一つの空が、地に横たわっているようでした。白い漆喰の家々、咲き初めた花々。飢えも、枯れも、ここには見当たりません。
「……豊かな土地、ですわね」
馬上のロザリア様が、扇の陰で呟きました。けれど、その声は、少しも安堵してはいませんでした。
豊かすぎるのです。
ソルレイがそうだったように。偽りの繁栄は、いつも、美しい顔をしています。
街道の辻には、金色の髪の女性を描いた肖像画が、いくつも掲げられていました。慈愛の微笑み。差し伸べられた手。その下に跪き、祈りを捧げる人々。
――アウレリア。
あの夜、メルディアの広場で、私を「偽物」と呼んだ、太陽の聖女の姿でした。
湖のほとりへ近づいて、私は、息を呑みました。
人が、並んでいたのです。
白い衣に身を包んだ人々が、静かに、一列になって、桟橋の先へと歩いていく。老いた者も、若い者も。その顔には、恐怖など、欠片もありませんでした。ただ、穏やかで、恍惚とした微笑みだけが、浮かんでいたのです。
先頭の女性が、ためらいもなく、湖へと、足を踏み出しました。
「――いけない!」
考えるより先に、体が動いていました。
白氷が、桟橋の先へと奔り、沈みかけたその人を、氷の腕が掬い上げます。青い水面が、みしり、と凍てついて、彼女の体を、そっと岸へ運びました。
助かった。
そう、思ったのです。
けれど。
「……なぜ、邪魔を、なさるのですか」
氷の腕の中で、その女性は、濡れた瞳のまま、私を見上げ――憎しみを込めて、そう言ったのでした。
「わたくしは、ようやく、御光の糧に選ばれたのです。あなたのような偽りの聖女に……この幸福を奪う権利など、ありはしませんっ」
周りの人々が、ざわめきました。
それは、助けを求める声では、ありませんでした。私を責める声だったのです。「偽聖女だ」「北の異端が来た」「アウレリア様の奇跡を汚す気か」と。
私が救ったはずのその人が、自らの意思で、氷の腕を振りほどこうともがいている。死へ向かって。喜びに満ちた顔で。
私は、立ち尽くしました。
剣も、氷も、通じない。この人たちが握りしめているのは、武器ではなく――祈りなのですから。
「おねえさま」
シエルが、私の袖を、ぎゅっと握りました。湖を見つめるその瞳は怯えていて――けれど、逃げては、いませんでした。
「あの人たち……囚われているんじゃなくて、自分から、行こうとしてる。こんなの、わたし、初めて見ました。……でも」
妹は、こくり、と唾を飲み込みました。
「諦めたく、ないです。だって、わたしも昔、誰かに諦められなかったから……今、ここに、いるんですもの」
その言葉に、凍えかけた胸の奥が、ほんの少し、熱を取り戻しました。
「エルシア」
隣に、カイルム様の手が、そっと添えられました。凍えた私の指を、その熱が、包みます。
「顔を上げろ。……ここは、これまでのどの祭壇より、手強い。剣も氷も効かぬ相手だ。だが――君が一人で凍える必要はない。私が、君の隣にいる」
その熱に、震えが、わずかに和らぎました。
――力でも、氷でも、人の心は、解けない。
旅立ちの前に、私自身が口にしたその言葉が、こんなにも早く、目の前に突きつけられるなんて。
鏡湖は、青く、澄んで、どこまでも美しく。
その底に、いったいいくつの命を沈めてきたのか、おくびにも出さぬまま、ただ静かに、空を映していました。
偽りの太陽の光は、もう、この地の隅々にまで、根を張っている。
それを引き抜く戦いが――私の、いちばん難しい戦いが、今、始まったのです。
第三章「湖畔領編」、開幕ですわ……!
今度の舞台は、鏡のように美しい湖の領。ですが、その美しさの底には――。
これまでの祭壇は「力ずくで囚われた生贄」でした。
けれど今度は違います。民が、自ら、笑顔で、湖へ向かうのです。
救おうとしたエルシア様が、「邪魔をするな」と憎まれてしまう……。
剣でも氷でも、"信じる心"だけは、凍らせられません。
エルシア様の、いちばん難しい戦いが、始まりますの。
そして、カイルム閣下の「私が、君の隣にいる」。
窮地でこそ効く、静かな溺愛。沁みますわね……!
次回、第90話「祈りという名の毒」。
この歪んだ"奇跡"を湖畔領に根づかせた者の顔が、見えてまいります。
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皆様の応援が、エルシア様の――そして私の、何よりの力になりますの。




