第88話:第二章 完/溶けない雪のように
剣が、振り下ろされる――その寸前でした。
「私の妻に、触れるな」
地を這うような声と共に、広場の温度が、奈落の底まで、落ちました。
いつの間に。
私の前に、漆黒のマントを翻したカイルム様が、立ちはだかっていたのです。地味な外套をかなぐり捨て、隠していた魔気を、惜しげもなく解き放って。
氷狼の唸りが、夜気を震わせました。
次の瞬間、衛兵たちの足元から、轟と氷が噴き上がり、その剣を、その鎧を、瞬く間に凍てつかせていきます。剣を握ったまま動けなくなった衛兵たちが、悲鳴を上げました。
「け、剣が……っ」
「ひ、氷の、死神……!?」
「命までは取らん。……だが、これ以上、彼女に一歩でも近づけば、その限りではない」
たった一人で。
氷の死神は、万の群衆と、教会の衛兵を、ただその威圧だけで、ぴたりと押し止めていました。
「エルシア。お前たちは、行け。……真実を叫ぶ時間を稼ぐのが、私の役目だと言ったろう」
「カイルム様……!」
「案ずるな。私は、すぐに追いつく。氷の死神が、こんな所で、おめおめ討たれてやると思うか」
不敵に笑う、その背中を、私は、信じることにしました。
ロザリア様が手配していた抜け道へ。リオが、シエルが、マルファスが、解放された人々が。私たちは、凍りついた広場を背に、メルディアの闇へと、駆け抜けたのです。
◇◇◇
夜明け前。
メルディアを遠く離れた森の中で、私たちは、ようやく、足を止めました。約束通り、カイルム様も、漆黒のマントに少しの霜を残しただけで、追いついてきました。
誰一人、欠けては、いませんでした。
「……結局、何も、証明、できませんでしたわね」
焚き火を囲み、ロザリア様が、力なく呟きました。
その通りでした。
万民は、私を「偽聖女」と断じ、アウレリアの偽りの光は、いっそう眩く、大陸を照らすことでしょう。世論の戦は、惨敗。私たちは、敗走したのです。
「いいえ。……無駄では、ありませんでした」
けれど、私は、首を振りました。
「あの広場で、ほんの数人でも、私の言葉に、立ち止まってくれた人がいた。アウレリアの瞳に、確かに、迷いが生まれた。マルファスさんとリオさんは、海都の罪の証を、握っている。……そして何より」
私は、焚き火を囲む、皆の顔を見渡しました。
「私たちは、誰一人、欠けずに、ここにいる。千年前、リーシェ様には、なかったもの。……この『繋いだ手』が、ある限り。私たちは、何度でも、立ち上がれます」
パチ、と火の粉が爆ぜました。
シエルが、こくりと頷き、私の手を、ぎゅっと握ります。
◇◇◇
けれど、安息は、長くは続きませんでした。
その朝、駆けつけた早馬が、新たな、痛ましい報せを運んできたのです。
「聖女様……南の、湖畔領で、恐ろしいことが。アウレリア様の奇跡に酔った民が……『自分も聖女様の御光の糧になりたい』と、自ら、祭壇へ、身を投げ始めていると……!」
息が、止まりました。
偽りの太陽は、ただ人を欺くだけでは、済まなかった。その眩さは、人の心を蝕み、今や、民自らが、進んで生贄になろうとしている。これまでの、力ずくで囚われた生贄とは、まるで違う。信じる心が、人を、死へと駆り立てている。
「……行きます」
私は、立ち上がりました。
「祭壇を壊すより、ずっと難しい。人の『心』は、氷でも、剣でも、解けません。それでも……行かなければ。あの湖畔で、一人でも多くの人を、偽りの光から、連れ戻すために」
遥か彼方、海都の本祭壇を暴く日は、まだ、遠い。
けれど、今、目の前で、消えようとしている命がある。ならば、私のすべきことは、決まっています。
春を呼ぶ雪解けの水が、一度に大地を潤すことはありません。
ただ、絶え間なく、静かに、染み込んでいくだけ。
――私の氷も、きっと、そう。眩い奇跡には敵わなくとも。溶けない雪のように、一つひとつの心に、染み込んでいけばいい。
偽りの太陽が、いかに高く昇ろうとも。
私は、私の歩幅で。次の地へと、踏み出すのでした。
――第二章「北領会議編」・完。
第二章「北領会議編」、これにて完結ですわ……! 長い旅に、お付き合いくださり、本当にありがとうございます。
まずは、カイルム閣下の大暴れ!
「真実を叫ぶ時間を稼ぐのが、私の役目」――有言実行で、たった一人、万の群衆と衛兵を氷漬けに。
それでいて「命までは取らん」。第一部から続く"奪わない断罪"、痺れますわね。そして全員無事に生還。
世論の戦いは、惨敗。エルシア様は「偽聖女」の烙印を押されてしまいました。
ですが――無駄ではなかった。
立ち止まってくれた数人。アウレリアの瞳に生まれた迷い。マルファス&リオの握る証。
そして「誰一人欠けずに、ここにいる」。リーシェが持てなかった「繋いだ手」。
惨敗の中にも、確かに、希望の熾火が残りましたわ。
そして、ラスト。
偽りの太陽の、本当の恐ろしさ。
湖畔領で、民が「自ら」生贄になろうとしている……。
力で囚われた生贄とは違う。"信じる心"が、人を死へ駆り立てる。
「人の心は、氷でも剣でも解けない。それでも、行かなければ」――
第三章は、その「湖畔領編」。エルシア様の、最も難しい戦いが始まります。
(そして、遥か海都の本祭壇を暴く日へ……物語は、続きます)
第二章を「面白かった!」と思ってくださったなら、
ぜひ【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】で、第三章への大きな追い風を贈ってあげてくださいな。
皆様の応援が、エルシア様の、そして私の、何よりの力になりますの。
次回、第三章へ。第89話「湖畔に集う、捧げる者たち」でお会いしましょう。




