第100話:湖から、還る者
「――子爵さま!」
私は地を蹴りました。桟橋の先で黒い水に、膝まで浸かった子爵の足もとへ。白氷を走らせます。
水面が、彼の腰のあたりで、薄氷を張り、その体をそっと押しとどめました。荒々しくではなく。溺れる人を抱きとめるように。
「放せ……! 放してくれ……!」
子爵は、胸もとから小さな、銀のロケットを、取り出しました。震える指でその蓋を、開きます。中には、微笑む、若い女性の小さな肖像。
「レネ……! 今、そちらへ……! この身を、御光に捧げれば、また、お前に……!」
その悲痛な叫びを聞いて。
群衆の中から一つ、また一つと、声が、上がり始めました。
「……ちがう」
白い衣をまとった、一人の女が、ふらりと列を離れました。足もとの銀の糸を、恐ろしげに見つめ、それから、着ていた白い衣を、そっと脱ぎ捨てたのです。
「あたし……あたしの、亭主も。去年この湖に。御光になったって信じてた。……でも、あの糸が、ほんとうなら。あの人はただ喰われただけ、なのかい……?」
その声が、呼び水になりました。
二人、三人。白い衣を脱ぐ者が現れます。湖のほとりに並んでいた列から、後ずさり、岸へと還ってくる。真新しい白布が、月光の下に、いくつも、落ちていきました。
――届いた。
たった数人。けれど確かにこの人たちの心は、自分の目で見た「事実」で、湖から離れたのです。氷で塞いだのではない。彼ら自身が還ってきた。
けれど私が、その手応えを噛みしめた、その時でした。
ずうん、と。
湖の底から地鳴りのような、震えが、伝わってきました。
「……!」
水面が盛り上がります。黒い水が、月を、飲み込みました。湖の中央から無数の銀の糸が、いっせいにぴんと張りつめる。そしてそれらが、岸へ向かって――今度は、これまでのそっと吸い上げるのとは、違う。強く貪欲に生命力を、たぐり寄せ始めたのです。
「きゃあっ!」
岸に立っていた民が、膝をつきました。糸に力を吸われて。捧げる者が減ったぶんを。奪われまいと逃げる者から、力ずくで。
「これは……!」
湖が怒っている。いいえ、違います。あの祭壇が、飢えているのです。みずから進んで捧げられる命が、減ったから。ならば力ずくで奪おうと。
「エルシア!」
カイルム様が、倒れかけた民を、氷の狼たちに支えさせながら、叫びました。
「岸の者を私が守る! だがこれは、根を絶たねば、止まらんぞ!」
私は、湖の中央を、見据えました。あの、黒い水の底。すべての糸が集まる場所。太陽のかたちをした、祭壇そのもの。
――そこへ行くしかない。
「シエル! ロザリア様! 民を、岸の高台へ! カイルム様は、糸を断ってください!」
「エルシア、君は――」
「湖の底へ。あの祭壇を鎮めにまいります」
そして水面では。子爵が、私の氷を、渾身の力で砕きました。銀のロケットを、握りしめたまま。狂気に濡れた目で、湖のいちばん深いところへと。
「レネ……!」
白い祭服が、黒い水に飲まれていきました。
第100話、お読みくださってありがとうございますわ。
そして――ついに、第100話! 第一部からお付き合いくださっている皆さま、本当に、ありがとうございます。
「湖から、還る者」。
たった数人。けれど、氷で塞いだのではなく、民が自分の意志で、白い衣を脱ぎ、岸へと還ってきた。エルシア様の、静かな戦い方が、実を結んだ瞬間でした。
けれど、勝利の余韻に、浸る間もなく。
捧げる者が減ったことで、湖底の祭壇が「飢えて」暴走を始めます。今度は、力ずくで、岸の民から生命力を奪おうと――。
そして、狂気に飲まれた子爵ジェラールは、亡き妻レネのロケットを握りしめ、湖のいちばん深いところへ、身を投げてしまいました。
エルシア様は、決意します。湖の底へ。すべての糸が集まる、祭壇そのものへ。
次回、第101話「満月の、奉納」。
黒い水の底で、エルシア様を待つものとは。
もし、第100話まで一緒に歩いてくださった皆さまが「ここまで来た!」と思ってくださったなら、ぜひ【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】の評価で、湖の底へ向かうエルシア様に、灯りを贈ってあげてくださいな。
皆様の応援が、エルシア様の、そして私の、何よりの力になりますの。




