第101話:満月の、奉納
私は湖へ身を投じました。
黒い水が、頭のうえで閉じます。息を止め、指先から白氷を放ちました。私の周りの水が、薄い、透きとおった殻となって、球のように私を包みます。母の魔導書の一節――水の中に、息づく場所をこしらえる術。
その殻ごと私は、湖の底へと沈んでいきました。
水の底は、しんと静まり返っていました。頭上で満月の光が、水面に砕けて、遠く揺れています。けれど沈むにつれ、その銀の輝きも、少しずつ、小さくなり、やがて届かなくなりました。
水の圧が、氷の殻をみしり、と締めつけます。地上の松明の喧騒も、群衆の祈りも、ここには、何一つ、届きません。ただ私の心の臓の音だけが、闇の中で、静かに脈を打っていました。
冷たい闇。月の光も、ここまでは、届きません。けれど私には視えます。無数の銀の糸が、暗い水を縫って、底へ、底へと収束していく。そのいちばん深い場所へ。
――子爵さま。
少し先に白い祭服が、ゆらりと、沈んでいくのが、見えました。もう、もがいてもいません。ただ微笑みを浮かべ、銀のロケットを、胸に抱いて。安らかに死へと身を委ねている。
「そんなの奉納でもなんでもありません」
私は水を蹴りました。氷の殻を彼のもとへ寄せていきます。届いた手をそっとその体に回しました。冷えきった、初老の痩せた体。
「一緒に還りましょう。あなたの奥さまはあなたに、こんなことを望んではいません」
子爵の瞼が、うっすらと開きました。夢見るような眼差しで。
「……レネが。呼んでいるのです。あの、光の、中で」
「それは奥さまではありません。あなたの悲しみが見せる、幻です」
その時でした。
私の右腕が。焼けるように疼きました。
――っ……!
血の盟約の呪い。祭壇に近づくたび、それは、疼く。けれど今宵の痛みは、これまでの比では、ありませんでした。まるでこの巨大な祭壇が、私の中の、千年前の傷に直接、触れてくるような。
息が詰まりました。腕の奥の骨まで、焼けた鉄を押し当てられたよう。視界の端が、赤く明滅します。この祭壇は、ただ命を吸うだけでは、ないのです。私という存在そのものを――千年前に葬られた、調和の聖女の血を継ぐ者を。異物として、拒み、灼こうとしている。そう感じました。
鎖骨の氷狼の紋章が、熱を帯びます。魂の鎖の向こうから。岸で戦うカイルム様の、確かな熱が、流れ込んでくるのが、わかりました。半分こに背負う、と誓った、その痛みを。彼が遠くから分かち持ってくれている。
――一人ではない。
私は、歯を食いしばりました。痛みに飲まれず。子爵を抱えたまま、さらに深くへ。
そして私は、それを見ました。
湖底に鎮座する黒い太陽。ソルレイのものが赤子なら。これは老いた巨獣でした。表面にびっしりと古い文字が、刻まれ、脈打つように明滅している。無数の糸を体から生やし、この地の、すべての命をたぐり寄せながら。
その祭壇の中心に。
小さな光の澱みが、揺れていました。とても弱く。とても悲しげに。まるで囚われた、たましいの名残のように。
「……まさか」
私は子爵の抱く、銀のロケットの、肖像を見つめました。それからその澱む光を。
――ああ。
この人が、五年間、信じてきた「御光になった妻」。それは、幻では、なかったのかもしれない。けれどそれは、救いでは、決して、なかった。
第101話、お読みくださってありがとうございますわ。
エルシア様、ついに湖の底へ。母の魔導書の術で、水の中に息づく場所をこしらえながら、暗い闇を沈んでいきます。
安らかに死を受け入れようとする子爵を抱きとめ、「奥さまは、こんなことを望んでいません」と。
そして、祭壇に近づくほどに、激しく疼く、血の盟約の呪い。けれど、氷狼の紋章を通じて、遠く岸で戦うカイルム閣下が、その痛みを半分、分かち持ってくれる。「一人ではない」――この絆が、エルシア様を支えます。
湖底の、老いた黒い太陽。その中心に揺れる、弱く悲しげな光の澱み。
そして、それを見たエルシア様が、悟ってしまった、あまりに哀しい真実とは……。
次回、第102話「湖底の、祭壇」。
子爵が信じた「御光になった妻」の、本当の姿が明かされます。
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