第102話:湖底の、祭壇
黒い太陽の中心で。
その弱い光の澱みは、私たちが近づくと、ほんの少し、揺らめきました。
まるでこちらに気づいたかのように。
「……レ、ネ?」
子爵の唇が震えました。私の腕の中で彼はその光へと、手を伸ばそうとします。
澱む光が応えるように淡く明滅しました。子爵の抱く、銀のロケットの方へ。ほんのわずかに傾いで。
私は確信しました。そして悟りました。それが何を意味するのかを。
「子爵さま。……聞いて、ください。つらい真実です」
私は氷の殻の中で彼の痩せた肩を、しっかりと抱きとめました。
「奥さまは御光になられたのでは、ありません。この祭壇に――生命力を吸い上げられ、囚われて、いるのです。五年間ずっと。安らぐこともできずに。ここに」
「そんな……そんなはずは、ない! レネは安らかな顔で……!」
「あの、安らかなお顔は。奥さまの苦しみが、終わったからではありません。この祭壇が命を吸い始めた、その、はじまりのしるしだったのです」
子爵の目が、大きく見開かれました。
私は彼に視せました。私の白氷を通して。この老いた黒い太陽が、五年前、レネ夫人の、まだ温かい命を、どのようにたぐり寄せたのかを。「痛みを取り除く」という顔をして。その実、彼女という一つの命を、この地に飢えを呼ぶための、最初の薪にしたのだということを。
氷に触れて、その遠い日の情景が、微かに蘇りました。病の床に伏せた若い夫人。その枕元に立った、金色の聖女。差し伸べられた手から、まばゆい光がこぼれます。
けれどそれは、癒しでは、ありませんでした。夫人の痩せた胸からまだ消えぬ、命の温もりを、その光がそっと吸い上げていく。苦痛が遠のいたのは彼女の生きる力、そのものが、薄れていったから、だったのです。
澱む光は、今も、ここにある。消えることも、還ることも、できずに。ただ弱々しく愛した人の、ロケットの方へ、傾ぐことしか、できずに。
「あ……あ、あ……」
子爵の喉から声にならない、声が漏れました。
五年間、彼を支えてきた、たった一つの、拠りどころ。「妻はより尊い形で生きている」。その美しい嘘が。今、粉々に砕けていきます。彼が率先して、民を湖へ送ったのも。すべてはこの砕けやすい嘘を、守るためだったのに。
「わたしは……わたしはなんということを……! レネを、苦しめたまま……そのうえ、あの者たちまで同じ場所へ……!」
その慟哭が、氷の殻の中に響きました。抱きとめた、その体から、力という力が抜けていきます。誇り高かった領主の背が、暗い水の中で、幼子のように丸く折れました。
――間に合わなかった、かもしれない。けれど。
「子爵さま。まだできることがあります」
私は彼の涙に濡れた顔を、まっすぐに見つめました。
「奥さまを、本当に自由にして差し上げる。この祭壇から解き放つ。囚われた命を還す。……それが、私に、できることです。あなたが心から望むなら」
その時、祭壇がひときわ、大きく脈打ちました。
子爵という「最も深い奉納」が、逃げようとしている。それを逃すまいとするかのように。無数の糸がいっせいに私たちへ殺到しました。氷の殻に絡みつき、締めあげてきます。私の右腕の呪いが、悲鳴を上げました。
「……っ、来ます! 掴まって、いてください!」
私は殻の中で両手を組みました。母の魔導書の、いちばん静かな一節を、思い描きながら。
壊すのではない。奪うのでもない。
この飢えた黒い太陽を――「生贄なき調和」へと造り替える。
私の氷がいのちの糸にそっと触れました。
第102話、お読みくださってありがとうございますわ。
あまりにも、哀しい真実でした。
子爵が五年間信じてきた「御光になった妻」――レネさまは、救われたのではなく、この祭壇に囚われ、安らぐことすらできずにいた。あの「安らかな死顔」は、祭壇が命を吸い始めた、はじまりのしるしだった……。
美しい嘘が、粉々に砕け、子爵は慟哭します。妻を苦しめ、そのうえ民まで同じ場所へ送ってしまった、と。
けれど、エルシア様は言います。「まだ、できることがあります」。囚われた命を、解き放つ。それが、聖女の力なのだ、と。
逃すまいと殺到する、いのちの糸。疼く呪い。
エルシア様が組んだ両手から、いよいよ、祭壇解放の氷が――。
次回、第103話「生贄なき、調和へ」。
湖畔領編、最大のカタルシス。
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