第103話:生贄なき、調和へ
私は目を閉じました。
絡みつく糸の痛みも。焼けるような右腕の呪いも。すべてを遠くへ押しやって。ただこの黒い太陽のいちばん奥にある、飢えの根っこだけを感じ取ります。
――あなたは間違って、生まれてしまった。
千年前、誰かがこの地の恵みを、独り占めするために、造った、いのちを喰らう仕組み。けれどその本質はただいのちのめぐり。奪う向きにねじれてしまっただけ。
なら、ほどいて、あげましょう。
私の白氷が祭壇の表面をそっと撫でました。壊すためではなく。凍った、古い傷にあたたかい手を当てるように。刻まれた古文字の、一画、一画をなぞりながら、その、ねじれた向きを逆へと、逆へと戻していきます。
奪う流れをめぐる流れへ。
捧げさせる力を、分かち合う力へ。
きぃん、と。
澄んだ、鈴のような音が、湖の底に響きわたりました。
その音とともに、右腕を灼いていた呪いの疼きが、ふっと和らぎます。祭壇のねじれが、ほどけていくにつれて。まるで千年ものあいだ、食いしばられていた歯を、そっと緩めていくように。
黒かった太陽が、ゆっくりと、透きとおっていきます。びっしりと生えていた糸が、ほどけ、光の細い流れに変わっていく。この地から、奪い上げていた生命力が――今度は、逆に。祭壇から土へ木々へ、人々へと還り始めたのです。
闇に沈んでいた湖の底が、内側から、ほのかに明るんでいきました。冷たく澱んでいた水が、澄んだ流れを取り戻す。私の氷の殻を無数の細かな光の粒が、ゆっくりと通り抜けていきます。奪われていたものが、みな、あるべき場所へ帰っていく。その流れの中に、私はただ立っていました。
痩せた湖底の泥から、白い水草が芽吹きました。それはみるみる、緑を取り戻し、小さな花を開かせていきます。黒い太陽はいつしか、澄んだ、青白い光を湛える、静かな泉へとその姿を変えていました。
調和の泉。奪わず、めぐらせる、いのちのみなもと。
そしてその中心で。
あの、弱く澱んでいた光が、ふわりとほどけました。
もう囚われてはいません。それはしばらく子爵の抱く銀のロケットの、傍らを寄り添うように、ゆらめいて。それから糸の切れた凧が、空へ帰るように。ゆっくりと水面の月へ向かって、昇っていきました。とてもやすらかに。五年ぶりに。
「レネ……」
子爵の頬を涙が伝います。今度こそ、本当の別れの涙でした。
「行ってしまわれた……。ああ、しかし……安らかに。ようやく本当に安らかに……」
昇っていくその光に、私も、そっと祈りを添えました。どうか、次に生まれる時は。誰にも命を薪にされることのない、あたたかな陽だまりの中で。今度こそ、安らかにあれ、と。
私は彼の肩をそっと抱きとめ、そして水を蹴りました。
氷の殻ごと光の差す、水面へ。囚われていた、すべてのいのちを、この地へ還しながら。
◇◇◇
水面を破った瞬間。
「エルシア!」
力強い腕が私を湖からすくい上げました。カイルム様です。びしょ濡れの私をそのまま、胸に抱きしめて。
「……無茶をする。心臓がいくつあっても、足りん」
その声がいつもの決め台詞より、ずっと揺れていて。私は思わず、笑ってしまいました。
「ただいま、戻りました。……ちゃんと二人ぶんの痛みを、抱えて」
岸を見渡します。
あれほど、私を憎んでいた群衆が。今は呆然と変わりゆく湖を、見つめていました。黒く淀んでいた鏡湖が、澄んだ青へと色を変え、その岸辺に、夜だというのに、青白い花が次々と開いていく。
誰も跪きはしませんでした。ただ静かに。自分たちの信じてきたものと、今、目の前で起きていることの、あまりの違いに、言葉を失っていたのです。
勝った、とは。私にはまだ言えませんでした。
第103話、お読みくださってありがとうございますわ。
湖畔領編、最大のカタルシス。祭壇解放です。
エルシア様は、祭壇を「壊す」のではなく、ねじれた「いのちのめぐり」を、逆へと戻していく。奪う流れを、分かち合う流れへ。黒い太陽が、澄んだ「調和の泉」へと変わっていく描写、いかがでしたか。
そして、五年間囚われていたレネさまの光が、ようやく、本当に、やすらかに昇っていきました。子爵の、今度こそ本当の、別れの涙……。
水面ですくい上げてくれた、カイルム閣下。「心臓が、いくつあっても足りん」――決め台詞より揺れたその声に、エルシア様も、思わず笑みを。「二人ぶんの痛みを抱えて、ただいま」ですわ。
けれど、群衆は、跪きませんでした。エルシア様も、「勝った」とは言えずにいます。
この後味の意味が、次回、はっきりと形になります。
次回、第104話「奪わずに、裁く」。
面白いと思ってくださったら、ぜひ【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】を贈ってくださいませ。
皆様の応援が、エルシア様の、そして私の、何よりの力になりますの。




