第104話:奪わずに、裁く
夜が明けました。
鏡湖は嘘のように澄んでいます。岸辺には青白い花が咲き、痩せていた畑には、うっすらと緑が戻り始めていました。あれほど、この地を蝕んでいた飢えの気配は、もうどこにもありません。
館の広間に私はジェラール子爵と、向かい合って、座っていました。
子爵は一夜にして、十も、老け込んだように、見えました。膝の上であの銀のロケットを、握りしめて。
「聖女さま。……いえ、もはや、そう、お呼びする資格もありませんな。わたしは」
彼は深く頭を垂れました。
「わたしはこの手で幾人もの民を、あの湖へ送りました。妻を苦しめ、その罪から目を背けるために、なお、罪を重ねた。……どのような、裁きもお受けいたします。この首を刎ねられても文句はございません」
私は静かに首を振りました。
「いいえ、子爵さま。あなたの命を私は、奪いません」
「なぜ、です。わたしはそれだけのことを――」
「命を奪えば、あなたは楽になるだけです。妻を苦しめた記憶からも、民を送った罪からも逃げられてしまう。……それは罰ではありません」
私は彼の震える手を見つめました。
「あなたが負うべきものは、死ではなく――生きて、償うことです。子爵の位もこの地を治める力も、あなたは失います。けれどその代わり。あなたが湖へ送った人たちの、遺された家族のもとへ、これからの一生をかけて、通いなさい。頭を下げ、詫びて、支えなさい。あなたがレネさまにしてあげたかったように」
子爵の目から涙が、こぼれ落ちました。
「……それは。それは死よりも遥かに重い、罰でございます」
「ええ。ですから、あなたに、課すのです。奪うのではなく――背負っていただく。それが私の裁きです」
彼は床に額をつけ、長い間、嗚咽していました。奪わない断罪。それがこの人にとって、いちばん、逃げ場のない、贖いなのだとわかっていたから。
私はそっと立ち上がりました。去り際に一度だけ、振り返って。
「子爵さま。……償いの道は長く暗いでしょう。けれどあなたが救えなかった命の数だけ、これからあなたが支えられる命があります。どうか、そちらを見て、歩いてくださいまし」
彼が顔を上げたかは、わかりません。ただ握りしめた銀のロケットの上に、また一滴、涙の落ちるのが、見えました。
◇◇◇
けれど。
館を出て、町を歩く私に注がれる目は、まだ、温かいものばかりではありませんでした。
「……あの女のせいで御光が消えちまった」
井戸端で老婆が、囁くのが、聞こえました。
「畑に緑は戻ったがあの、まばゆい奇跡はもう拝めない。……あたしゃ、あの金色の光の方が、ありがたかったよ」
私は足を止めました。
祭壇は解放しました。子爵も真実に辿り着きました。数人の民は、湖から還ってきました。けれど――この地に、深く根を張った「アウレリア様の奇跡」への、憧れそのものは。消えていなかったのです。
まばゆい偽りの光。それは湖の底の祭壇より、ずっと、しぶとく人の心に巣くっていました。
祭壇なら氷で解けました。けれど人の心に灯ってしまった、まばゆい憧れは。氷を近づけるほど、かえって、頑なに身を固くする。そういう種類の光なのです。
「……氷では届かない、と思っていました」
隣を歩くカイルム様に、私は、そっとこぼしました。右腕の呪いの疼きが、まだ鈍く残っています。
「けれど氷で祭壇を解いても、まだ届かないものが、ある。あの、金色の光そのものを、偽物だと証さないかぎり。私はこの地でもずっと偽聖女のまま」
「ならば」
カイルム様は遠く南の空を見据えました。
「その金色の光の根っこを、断ちに行くしかないな。……本物の太陽のある方へ」
第104話、お読みくださってありがとうございますわ。
「奪わずに、裁く」。
エルシア様が子爵に下したのは、死ではなく、「生きて、償え」という裁きでした。子爵の位も、治める力も失い、湖へ送った民の遺族のもとへ、一生をかけて通い、詫びて、支える――死よりも重い、逃げ場のない贖い。この作品らしい、断罪の形ですわね。
けれど、この章は、勝ち切りません。
祭壇を解いても、子爵が真実に辿り着いても、民の心に根を張った「アウレリア様の奇跡」への憧れは、消えていなかった。「あの金色の光の方が、ありがたかった」――エルシア様は、この地でもなお、「偽聖女」のまま。
まばゆい偽りの光の、根っこを断つには。
本物の太陽の、ある方へ――物語は、大きく動き出します。
次回、第105話「海の都の、証」。
潜入していた、あの二人から、報せが届きます。
もし、「奪わずに、裁く」に「この作品らしい!」と思ってくださったなら、ぜひ【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】の評価で、それでも偽聖女と呼ばれる彼女に、追い風を贈ってあげてくださいな。
皆様の応援が、エルシア様の、そして私の、何よりの力になりますの。




