第72話:聖都に伸びる影(第二部第一章 完)
翌朝。
私は、城の最も高い塔の窓辺に立って、東の空を見ていました。
昇りはじめた朝日が、雪原を淡い薔薇色に染めています。
手には、昨夜のうちに整理した書状の束。東の麦領、南の塩湖、名も知らぬ漁村――どれもが、人の消える祭壇に怯える、悲鳴の手紙です。
「……一人では、回りきれない」
ソルレイのように、私が一つひとつの領に出向いていては、間に合わない。私の足が一つの祭壇を解く間に、十の祭壇が、人を喰らってしまう。
ならば、どうするか。
昨夜、カイルム様の腕の中で、ずっと考えていました。そして、夜明けと共に、一つの答えが、私の中に灯ったのです。
「カイルム様」
私は、隣に立つ夫を見上げました。
「ノースウォールを、ただの拠点ではなく、『会議の地』にしましょう。救いを求める各地の領主や、教会に疑いを抱く者たちを、ここへ招くのです。……私が一人で全土を駆けるのではなく、祭壇を解く知恵と力を、皆で分かち合う。そういう、輪を」
カイルム様は、しばらく私を見つめ、それから、ふっと口の端を上げました。
「君は、本当に……一人で世界を抱えるのをやめて、世界に手を差し出すことを、覚えたのだな」
「ええ。だって、私はもう、屋根裏で一人で凍えていた、あの頃の私ではありませんから」
かつて、誰にも縋れず、自分の冷たい指だけを握りしめていた少女。
その私が、今、大陸中の人々と、手を取り合おうとしている。
遠くまで、来たものです。
「決めましたわ。次は、北の地で、皆を集めます。――生贄なき世界を、私一人の奇跡ではなく、みんなの意志にするために」
朝日が、窓辺の私を照らしました。
その光に応えるように、窓硝子の縁に、凛と澄んだ霜の花が、一輪、静かに咲きました。
――こうして、ソルレイの春に始まった、私たちの第一章は、幕を閉じます。
けれど、これは終わりではなく、もっと大きな戦いの、始まりの号砲でした。
◇◇◇
遥か南。白亜の聖都、その大聖堂の最奥。
黄金の燭台が並ぶ謁見の間で、枢機卿ヴァレリウスが、聖王の玉座の前に深く跪いていた。
その手には、北から届いた一通の報告書。異端審問官マルファスの、敗北と捕縛を記した文書である。
「……申し上げます、聖王猊下。審問官マルファスは、神罰の光をもってしても、かの『調和の聖女』を討てませなんだ。それどころか、捕らえられ、教会の祭壇の秘事を、内側から暴かれつつあります」
玉座の上、深い影に沈んだ聖王は、わずかも表情を動かさなかった。
ただ、その指先が、肘掛けを一度、とん、と打った。それだけで、広間の空気が、ぴんと張り詰める。
「力で、葬れぬか。……マルファスは、もはや用済みよ。二度退け、三度目は囚われの身となった駒。北の女の好きにさせ、捨て置け」
二十年あまり、あの娘を「不浄」と狩り続けた審問官の末路を、聖王は、塵を払うほどの興味も示さなかった。
「は。……かの聖女、もはや一領の問題にあらず。各地の領主、教会に背きし末端の神官たちが、北の城へ希望を寄せ始めております。このまま捨て置けば、千年かけて築いた『太陽の秩序』そのものが、揺らぎかねませぬ」
枢機卿は、額に汗を滲ませながら、しかし、ここで顔を上げた。
その瞳には、力押しに失敗した者とは違う、狡猾な光が宿っている。
「されど、猊下。力で討てぬのなら――民の心を、討てばよろしいのです」
「……申してみよ」
「かの女は、民に『調和の聖女』と慕われ、その名声で人を集めております。ならば、その名声こそを、奪うのです。我ら教会の名のもとに、もう一人の聖女を――聖都公認の、『太陽の聖女』を、立てるのです」
枢機卿の声に、抑えきれぬ熱が滲んだ。
「真に世を照らす聖女は、聖都にあり。北の女は、その名を騙る、卑しき異端の偽物。……そう、世論を染め上げるのです。民は、教会が掲げる輝かしい聖女を信じ、やがて北の女を、自ら『偽聖女』と呼んで石を投げるでしょう。剣を一度も抜かずして、かの女の足元から、味方を崩す」
長い沈黙が、広間に落ちた。
やがて、玉座の影の中で、聖王の口元が、ほんのわずか、弧を描いた。
「……よかろう。偽りの太陽を、掲げよ。本物の異端を、偽物に仕立て上げよ」
「は。御意のままに」
枢機卿が、深く頭を垂れる。
太陽を象った聖堂の窓から差し込む光が、その背を、長く、長く、北の方角へと伸ばしていった。
まるで、まだ何も知らぬ北の城へと、影が、忍び寄っていくかのように。
ついに、第二部第一章「ソルレイ解放編」、完結ですわ――!
エルシア様の新たな決意で、本編は幕を閉じました。
「私一人で全土を駆けるのではなく、皆で輪を作る」――
屋根裏で一人凍えていた少女が、今や大陸中と手を取り合おうとしている。
その成長に、第一部から見守ってくださった皆様、感慨もひとしおではないでしょうか。
そして、後半の聖都の幕間。
力押しのマルファスが敗れ、枢機卿が進言したのは――
「偽りの"太陽の聖女"を立て、エルシア様を"偽物・異端"に仕立てて世論を操る」策。
聖王が、それを許可しました。
剣ではなく、人の心を討つ。
これまでとは質の違う、より狡猾で、より恐ろしい影が、北へと伸び始めます。
(……勘の良い読者様は、お気づきかもしれませんわね。これは、ずっと先の物語への、布石ですわ)
次の第二章は、殺到する救援要請を受けての「北領会議編」。
各地の領主が集い、エルシア様が公的な"聖女"としての立場を確立していく一方、
教会の最初の刺客も、本格的に動き出します。
第一部から、長い旅にお付き合いくださり、本当にありがとうございます。
第一章を「楽しかった!」「第二章も読みたい!」と思ってくださったなら、
ぜひ【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】の評価で、第二章への大きな追い風を贈ってあげてくださいな。
皆様の応援が、エルシア様の、そして私の、何よりの力になりますの。
――第一章・完。第二章「北領会議編」へ、続きます。
次回、第73話「北の城に集う、救いを求める声」でお会いしましょう。




