第71話:雪解けの拠点。あなたと二人で背負う、この温度
ノースウォールへ帰って、数日が過ぎました。
ソルレイの祭壇を解いた話は、私たちが思うよりもずっと速く、ずっと遠くまで、駆け抜けていったようです。
「北の調和の聖女が、生贄なしで枯れた地に春を呼んだ」――その噂は、行商人や旅の楽師の口を伝い、雪解け水のように大陸を潤していきました。
「エルシア様。また、お手紙が届いておりますわ」
侍女のセフィが、両腕いっぱいの書状を抱えて、執務室に入ってきました。その数は、昨日よりもさらに増えています。
「東の麦領から、南の塩湖の村から……それと、こちらは、名も知らぬ小さな漁村から。みな、同じ訴えですわ。『我が地にも、人の消える祭壇があります。どうか、お救いください』と」
私は、その一通を、そっと開きました。
たどたどしい文字。けれど、便箋の端には、涙の跡のように滲んだ染みがいくつも。これを書いた人が、どれほどの思いで筆を執ったのか、それだけで伝わってきます。
「……こんなに、たくさん」
ノースウォールは、いつの間にか、ただの辺境ではなくなっていました。
「祭壇を解き、人を救う、聖域の拠点」――そう呼ばれて、大陸中の、声を上げられずにいた人々の希望が、この北の城に集まり始めているのです。
「うれしい、はずなのに。……どうしましょう、セフィ。私の身体は、一つしかないのに」
救いを求める声の、あまりの多さ。
その重みに、私は、嬉しさと同じだけの、途方もなさを感じていました。
◇◇◇
その夜。
書状の山に向かったまま動けずにいた私の肩に、ふわりと、あたたかなものが掛けられました。
氷狼の毛皮のマント。カイルム様のものです。
「根を詰めすぎだ。少しは、私のために時間を使え」
「カイルム様……。でも、まだ、こんなに……」
「書状は逃げん。だが、君が倒れたら、この書状を読む者がいなくなる。……それくらいの理屈は、聖女様でもおわかりだろう?」
彼は、私の手から、そっと羽根ペンを取り上げました。
そして、私を抱き上げると、窓辺の長椅子へと運んでいきます。まるで、壊れ物を扱うように。
「まあ、カイルム様ったら。子どもではありませんのよ」
「知っている。私の、世界でただ一人の妻だ。……だからこそ、こうして閉じ込めておきたくなる」
窓の外には、ノースウォールの夜空が広がっていました。
かつて、死地と呼ばれたこの北の地。今は、無数の希望が集う聖域。その変わりようを、二人で、しばらく黙って眺めました。
「なあ、エルシア」
やがて、カイルム様が、ぽつりと口を開きました。
「私は、君が祭壇を解くたびに、嬉しくもあり、……正直、怖くもある」
「怖い……?」
「君が誰かを救うたび、私たちの血の盟約が疼く。君の右腕が、私の胸の奥が、少しずつ蝕まれていく。……世界を救う君の手が、君自身を削っているようで、たまらなくなる時がある」
彼の指が、私の右腕の紋章を、そっと撫でました。
その触れ方は、燃えるように熱いのに、どこまでも優しい。
「だが、私は君を止めない。止められないことを、知っているからだ。……だから、せめて」
カイルム様は、私の右腕を、自分の胸の上へと導きました。
彼の鼓動が、紋章を通じて、私の中へ流れ込んできます。
「君の痛みは、私の痛みだ。君が一人で削れていくのなら、私も、隣で同じだけ削れていく。……この呪いは、私たち二人の、共犯の証だ。一人では、絶対に背負わせない」
共犯者。
その言葉に、私の胸の奥が、じんと熱くなりました。
罪ではなく、誓い。世界を救うために、二人で背負うと決めた、甘やかな枷。
「……ずるい人」
私は、彼の胸に、そっと顔を埋めました。
「そんな風に言われたら、私、もう、あなた以外の誰とも、痛みを分け合えなくなってしまいますわ」
「それでいい。むしろ、そうあってくれ」
くつくつと、低い笑いが、彼の胸を震わせました。
その振動さえ、今は愛おしい。
「おねえさま、カイルムさま。シエルが、夜のお茶を……あっ」
扉の隙間から顔を覗かせたシエルが、私たちの姿を見て、ぽっと頬を染めました。
「ご、ごめんなさい……! あの、わたし、向こうで飲んできます……!」
「待って、シエル。おいで」
私は、慌てて逃げようとする妹を、笑って手招きしました。
カイルム様も、片眉を上げながら、長椅子の空いた隣を、軽く叩きます。
「……仕方のない奴だ。来い、シエル。一杯だけだぞ」
「い、いいんですか……? えへへ」
ぱっと顔を輝かせたシエルが、駆け寄ってきて、私の隣に小さく収まりました。
漆黒の熱と、調和の白氷と、純氷の妹。三人で寄り添うと、北の夜の冷たさも、なぜだか、ちっとも怖くありません。
窓辺の卓の上には、明日も、救いを求める書状の山が待っています。
大陸は、あまりに広い。祭壇は、数えきれないほどある。一体、どうやって、その全土を救えばいいのか――その答えは、まだ、私の手の中にはありません。
けれど。
この温度が、隣にある限り。
私は、何度でも、立ち上がれる気がするのです。
余韻と、次章への布石の回ですわ。
ソルレイ解放の名声で、ノースウォールが「祭壇解放の聖域」として大陸に知られ、
各地から救援の書状が殺到し始める――これぞ、次章「北領会議編」の入口ですわね。
そして、今回はたっぷり、カイルム閣下の溺愛回。
「君の痛みは、私の痛みだ」「この呪いは、二人の共犯の証だ」――
血の盟約を二人で背負う誓い……甘くて、切なくて、最高ですわよね。
照れて逃げようとするシエルを、二人で引き留めて三人でお茶。
家族の温度に、私もほっこりしてしまいましたわ。
ですが、卓の上には、救いを求める書状の山。
「どうやって、全土を救うのか」――エルシア様の前に、新たな、そして大きな問いが立ちはだかります。
もし、二人(と一人)の甘い時間に「尊い!」と思ってくださったなら、
ぜひ【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】の評価で、家族にあたたかな追い風を贈ってあげてくださいな。
次回、第72話「第一章 完/聖都に伸びる影」でお会いしましょう。




