第65話:祭壇の残り火と、氷の破片に眠る記憶
朝靄の晴れたソルレイ領は、まるで生まれ変わったようでした。
昨日まで人を喰らっていた地下の広間には、今、奪うのではなく巡らせる「調和の泉」が、静かに湧いています。
その清らかな水面を見つめていると、ここで永遠に魔力を搾り取られていた人々の苦しみが、ようやく報われたのだと、そう思えるのです。
「おねえさま、見てください。泉のそばに、お花が」
シエルが、泉の縁を指さしました。
奪う祭壇のあった場所に、ぽつりと、瑠璃色の小さな花が一輪。地下の闇に、そっと差し込んだ希望のようでした。
「本当ね。……ここはもう、誰も泣かない場所になったのね」
私は微笑んで、泉に手を伸ばしました。
その時でした。
泉の底で、何かが、きらり、と光ったのです。
水に手を差し入れて、そっと拾い上げる。
それは、私の手のひらほどの、透き通った「氷の破片」でした。祭壇の核があった、ちょうどその真下。長い年月、泥に埋もれていたのでしょう。けれど、不思議と一つも溶けてはいません。
「……氷? こんな地下に、どうして」
砂漠の祭壇でも、似たものを見たことがありました。
誰かの氷の魔力の、痕跡。けれど、私の白氷とも、シエルの純氷とも、違う。もっと古い、もっと寂しい――そんな冷たさです。
その破片に、私が指で触れた、その瞬間でした。
◇◇◇
視界が、白く、染まりました。
目の前に広がったのは、見たこともない、けれど、どこか懐かしい景色。
白亜の大聖堂。太陽を象った巨大な紋章。そして、その中央に、鎖で繋がれた一人の女性が、立っていました。
――私と、同じ。
白銀の髪に、青い瞳。手のひらから、清らかな氷の光をこぼす、一人の聖女。
『私は、間違ってなどいない』
その人は、群衆に向かって、まっすぐに告げていました。
『生贄など、いらない。奪わずとも、世界は巡る。それが、調和の理。……私は、ただ、それを示しただけ』
けれど、彼女を囲む人々の顔には、畏れと、憎しみがありました。
太陽の杖を掲げた神官たちが、口々に叫びます。「異端だ」「神の恵みを否定する魔女だ」と。
そして、一人の老いた男――豪奢な法衣を纏った、聖王と思しき人影が、静かに手を上げて。
『調和の聖女は、神への冒涜である。――これを、葬れ』
女性の足元に、太陽の焔が、燃え上がりました。
彼女は、最期まで、抗いも、憎みもしませんでした。ただ、悲しげに、けれど、どこか祈るように、こう呟いたのです。
『……いつか。私の願いを継ぐ、誰かが』
幻は、そこで途切れました。
◇◇◇
「――エルシア!」
カイルム様の声に、私はハッと我に返りました。
気づけば、私は泉のほとりにくずおれ、カイルム様の腕に抱きとめられていました。手の中の氷の破片が、まだ、ほのかに冷たい光を放っています。
「どうした。突然、意識が遠のいて……」
「……今、見えたんです。この破片に触れた瞬間。……千年前の、もう一人の『調和の聖女』を」
私は、震える声で、見たままを伝えました。
生贄を否定し、奪わぬ調和を説き、そして――中央教会に「異端」として、太陽の焔に葬られた、私とよく似た一人の聖女のことを。
「……千年前。聖王の、名のもとに」
カイルム様の瞳が、剣のように細められました。
その時、私の右腕で、血の盟約の紋章が、共鳴するように、ずきりと疼いたのです。
「っ……」
「動くな」
カイルム様が、私の右腕を、そっと自分の手で覆いました。彼の漆黒の魔気が、私の痛みを分け合うように、紋章に寄り添います。
「この破片と、紋章が……呼び合っている。……まるで、同じ時代の傷のように」
千年前の聖女。血の盟約。中央教会。聖王。
ばらばらだったはずの欠片が、私の中で、見えない糸で繋がれていくのを感じました。けれど、その糸の全貌は、まだ、深い霧の向こうです。
「聖女様……」
青ざめた顔で、リオが歩み寄ってきました。彼は、私の手の中の破片を見て、息を呑みます。
「その氷……教会の古い禁書で、読んだことがあります。『葬られし者の、還らぬ祈り』と。……教会は、千年の間、調和を説く聖女を、幾人も『異端』として葬ってきた。その記録だけが、固く封じられているのだと」
「……幾人も」
私は、手の中の小さな破片を、そっと胸に抱きしめました。
これは、ただの氷ではない。千年前に、私と同じ願いを抱いて、けれど力及ばず葬られた、誰かの祈りの、欠片なのです。
「リオさん。あなたは、教会へ戻ると言いましたね」
「はい。内側から、変えるために」
リオは、まっすぐに頷きました。けれど、その瞳には、もう昨日までの怯えだけではない、固い覚悟が宿っています。
「……だから、聖都へ行きます。封じられた記録の、その先を、確かめてきます。聖女様が見た千年前の真実が、本当なら……教会の『太陽の恵み』は、最初から、嘘の上に立っているということになる」
「……リオさん」
「わたしは、ただの末端の神官です。けれど、末端だからこそ、入り込める場所もある。……どうか、信じて待っていてください」
その背中は、もう、雪山を越えて命がけで救援に来た、あの怯えた青年ではありませんでした。
一人の人間が、自分の意志で、巨大な闇に立ち向かおうとしている。その姿に、私は胸を打たれました。
「ありがとう、リオさん。……どうか、無理だけはしないで」
リオは、深く一礼しました。聖都へ発つのは、もう間もなく。けれど、北の地でやり残したことがある、と言って、彼はもうしばらく、この地に留まると決めたようです。
その横顔を見つめながら、私は、手の中の氷の破片に視線を落としました。
千年前に葬られた、もう一人の聖女。
ならば――この破片は、きっと、彼女一人のものではない。
幾人もの、葬られた聖女たち。
その祈りの欠片が、今も、この大陸の各地に散らばっているのだとしたら。
「……みんな、まだ、待っているのかもしれませんわね」
私の呟きに応えるように、手の中の氷の破片が、ほんの一瞬、あたたかく光った気がしました。
第二部、ソルレイ編のその後ですわ。
解放された祭壇の跡、その泉の底から見つかった「氷の破片」。
それに触れたエルシア様が見たのは、千年前――彼女とよく似た、もう一人の「調和の聖女」が、
中央教会に「異端」として葬られる、悲しい幻でした。
実は、この「氷の破片」、第一部の砂漠編でも、そっと登場していたのです。
そして、ここに来て、血の盟約の紋章と共鳴する……。
ばらばらに見えた欠片が、少しずつ繋がり始めますわね。
見習い神官リオは、封じられた真実を確かめに、まもなく聖都へ。
頼もしい協力者が、いよいよ敵の懐へ飛び込もうとしています。
そして、エルシア様の予感――
この破片は、千年の間に葬られた、幾人もの聖女たちの、祈りの欠片なのかもしれない。
彼女たちは今も、各地で、誰かが来るのを待っているのかもしれません。
もし、千年前の謎に「続きが気になる!」と思ってくださったなら、
ぜひ【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】の評価で、葬られた聖女たちに祈りを贈ってあげてくださいな。
次回、第66話「凱旋のノースウォールと、届きはじめた声」でお会いしましょう。




