第36話:辺境伯夫人の朝。幸せなパンの香りと、小さな異変
「……エルシア。まだ、眠っていていいのだぞ」
耳元で囁かれる低く熱い声。
まどろみの中で感じたのは、冬の朝の冷気をすべて遮断してくれるような、逞しくて温かな抱擁でした。
ゆっくりと目を開ければ、そこには私を世界で一番大切な宝物のように見つめる、カイルム様の灰色の瞳がありました。
「……おはようございます、カイルム様。……でも、今日はパンを焼くと決めていましたから」
私がシーツから這い出そうとすると、カイルム様の腕にぐいと力がこもります。
彼は私の首筋に鼻を寄せ、深く、深く、その香りを吸い込みました。昨日、魂まで溶け合うような夜を過ごしたというのに、この方の私に対する渇愛は、一滴も減ることを知りません。
「……パンなど、料理人に任せればいい。君のその柔らかな指が、粉で汚れることさえ私は惜しいのだ。……それよりも、もう少しだけ私の熱の中にいてくれ」
「ふふ、またそんなことを。……閣下がそんなに甘やかしてくださるから、私はすっかりだめな奥様になってしまいそうですわ」
私が彼の頬にそっと口づけを贈ると、カイルム様はようやく、名残惜しそうに腕を緩めてくれました。
厨房に向かうと、そこには既にロザリア様が(なぜかエプロン姿で)待機していました。
「おはようございます、エルシア様! 見ましたわよ、今朝もカイルム閣下が窓辺で『エルシアが可愛すぎて仕事に行きたくない』という顔で立ち尽くしていらっしゃるのを!」
「……ロザリア様、声が大きいですわ」
顔を赤くしながらも、私は昨日仕込んでおいた生地を捏ね始めました。
王都にいた頃、冷たいパンの耳さえ分け与えてもらえなかった私にとって、自分の手で誰かのために温かな食事を作ることは、何よりの幸せなのです。
焼き上がったパンの香ばしい匂いが、城の食堂に満ちていきます。
カイルム様は、私が差し出した焼きたてのパンを一口食べると、まるで雷に打たれたような顔をして黙り込みました。
「……カイルム様? お口に合いませんでしたか?」
「…………。……いや、あまりに美味すぎて、やはり君をどこへも出したくなくなった。……こんなものを毎日食べさせられたら、私は君なしでは、指一本動かせない無能な男になってしまう」
「まあ、大げさですわ」
カイルム様は私の手をとり、指先の一本一本に、熱い口づけを落としました。
その瞳には、深い慈愛と――そして昨日見た『魔導書』の導きに対する、静かな覚悟が宿っていました。
「……エルシア。準備は整った。……永久凍土の果てへ、我が領の精鋭を伴い進軍する。……だが、これだけは約束してくれ。もし、少しでも君の身に危険が迫るなら、私は世界がどうなろうと構わん。即座に君を抱いて、ここへ引き返す」
「……ええ。分かっていますわ、カイルム様。……でも、今の私は、あなたの隣でこの地を守る『調和の聖女』。……必ず二人で、この幸せを永遠のものにしましょう」
食事を終え、旅立ちの準備のために中庭へ出たときでした。
ふと、足元に違和感を覚えました。
ノースウォールの雪の上に、見たこともないほど透明で、青く光る『氷の華』が咲いていたのです。
それは私が作ったものでも、カイルム様が放った冷気でもありません。
キィィィィン……。
微かな、けれど澄んだ鈴の音のような響き。
(……呼んでいる……?)
その氷の華に触れようとした瞬間。
私の脳裏に、吹雪の向こう側から囁きかける、古の歌のような声が届きました。
平和な朝の静寂に、波紋のように広がっていく未知の予感。
カイルム様の強い手が私の肩を抱き寄せましたが、私の視線は、その小さな『異変』に釘付けになっていたのです。
「……呼んでいる……?」
甘いパンの香りと、カイルム閣下の熱い溺愛。
そんな至福の朝に届いた、精霊からの微かな呼び声……。
エルシア様の氷が、ついに人間界を超えた存在と共鳴し始めましたわね。
カイルム閣下の「世界よりも君が大事」という、相変わらずの重すぎる愛。
この絶対的な安心感があるからこそ、エルシア様は新しい一歩を踏み出せるのです。
ですが、あの「歌う氷」の正体は一体何なのか……。
もし、閣下のデレデレっぷりに「ごちそうさま!」と思ってくださったなら、
ぜひ【ブックマーク】の継続と、下の【☆☆☆☆☆】の評価で、
二人の旅立ちに「追い風」を贈ってあげてくださいな。
皆様の評価が、エルシア様の耳に届く精霊の声を、
より鮮明な「真実」へと変える力になりますわ。
次回、第37話「溶けない雪の謎。精霊たちの囁き」でお会いしましょう。
(※物語のスケールが、一気に加速いたしますわよ!)




