第109話:あなたの隣が、私の春
旅立ちの前夜。
私は館の小さなバルコニーで、夜風にあたっていました。眼下の鏡湖が月を映して、静かに凪いでいます。もうあの命を吸う黒い水では、ありません。
けれど。
右腕がまだ時折、鈍く疼きます。祭壇を解放したあの代償。血の盟約の呪い。
「――また痛むのか」
背後から大きな手がそっと、私の右腕に重なりました。カイルム様です。彼の手が触れると、不思議と、疼きが和らいでいきます。氷狼の紋章を通じて、私の痛みが、彼へと半分、流れていくから。
「……ばれて、しまいましたね」
「隠すな。半分こにするのだろう。二人で」
カイルム様は私を後ろから、そっと包みました。彼の胸はいつも、驚くほど、あたたかい。氷の死神と恐れられた人の、どこにこんな熱が、あるのかといつも不思議になります。
彼の手のひらから私の腕へ。あたたかいものが、じんわりと染みてきます。呪いの疼きが遠のくのは、ただ、痛みが消えるからでは、ありません。この痛みをもう一人で抱えてはいないのだと。そう思えるからでした。
「祭壇を一つ解くたびにこの呪いは疼く。……いつか、根を絶てるのでしょうか」
「絶てる」
カイルム様は迷いなく言い切りました。
「君の調和の氷とシエルの純氷。二つが揃った時。千年前にねじれてしまった、最初の契約を正せる。……森の番人が、そう、言っていただろう。私はあの精霊の言葉より、君の氷を信じている」
その静かな確信が。私の揺れる心をしっかりと支えてくれました。
夜風が私の髪をさらっていきます。カイルム様はその一房をそっと指に絡めて、名残惜しそうに、掌へ収めました。こういう、小さな独占をこの人は、決して、言葉にはしません。けれど私にはちゃんと伝わっているのです。
「怖くないと言えば、嘘になります。海の都。教会のいちばん深いところ。……偽物と呼ばれ続ける、戦い」
「ならば教えてやろう」
カイルム様が、私の耳もとで囁きました。
「私が初めて、君を北の城に迎えた夜。……私は二十数年、誰にも、溶かせなかった、氷の中にいた。誰かの隣に立つことなど、生涯、ないと思っていた。それを君が変えた」
彼の腕にほんの少し、力が、こもります。
「だからな、エルシア。どんな遠い、偽りの太陽の下だろうと。君が凍える場所に、私はいる。……君の隣は、私の指定席だ。誰にも譲る気はない」
私は振り返り、その、あたたかな胸に、額を預けました。その鼓動が、頬に伝わってきます。規則正しく、力強い、生きている音。この音が隣にある限り、私は、どんな偽りの光の前でも、凍えずにいられる。
追放されて、この北の地に来た日。私は自分をいらない者だと、思っていました。春など、二度と巡ってこないと。
けれど。
「……カイルム様」
私はそっと微笑みました。
「私、わかったのです。私の春は季節では、なかった。この地の雪でも、南の海でもない。……あなたの隣。それが私の春なのですわ」
月の光の下で。
私たちはどちらからともなく、静かに額を寄せ合いました。
明日から、また、いくつもの、偽りの光と向き合う旅が始まります。けれどもう怖くは、ありませんでした。私の春はいつも、隣にあるのですから。
第109話、お読みくださってありがとうございますわ。
今回は、たっぷりの、甘い回。
旅立ちの前夜、エルシア様とカイルム閣下の、二人の時間です。
祭壇を解くたびに疼く、血の盟約の呪い。けれど、氷狼の紋章を通じて、カイルム閣下がその痛みを半分、引き受けてくれる。「半分こに、するのだろう。二人で」――。そして、根治の鍵は、エルシア様の調和の氷と、シエルの純氷。物語の、遠い希望も、そっと灯りました。
「君の隣は、私の指定席だ。誰にも譲る気はない」――閣下、平常運転の独占欲、いただきました(笑)。
そして、エルシア様の答え。「私の春は、季節ではなかった。あなたの隣。それが、私の春」。追放されたあの日から、ここまで来たのですね。
次回、いよいよ第110話「偽りの太陽の、ある方へ」。
湖畔領編は、次回で締めくくり。そして、物語は、海の都へ――。
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皆様の応援が、エルシア様の、そして私の、何よりの力になりますの。




